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『ロザリー』(3)

2020.3.8(Sun.) 13:00~16:00 J列10番台 月組前楽
2020.3.8(Sun.) 18:00~21:00 A列1桁番台 月組楽
2020.3.9(Mon.) 18:00~21:00 K列10番台 星組楽

六行会ホール(新馬場)

月組前楽、月組楽で観劇を終わるはずが、昨今の時勢で部署単位の強制での時差出勤(1時間前倒し)の結果、まさかの追加公演(星組楽/大楽)に間に合うことに。

というわけで、合計4回の観劇と相成りました。
月組2回、星組2回ですが、土日のジャンヌ・ベメールは入れ替わりだったので、ジャンヌは岡村さやかさん3回、井坂茜さん1回でした。もちろん分かってやったのですが。

久しぶりにパート割りして「ロザリー」の作品を
語りたいと思います。

●キーとなる「ジャンヌ」の存在
フランス革命、マリーアントワネットをテーマにしたミュージカルは多くありますが、『ロザリー』で特徴的なのは、マリーアントワネットの権威を失墜させたことで知られる「ジャンヌの首飾り事件」の主謀者の1人であるジャンヌが、物語を進めるかなり主要な位置にいることです。

今回は月組が井坂茜さん、星組が岡村さやかさん。

岡村さやかジャンヌは生きるテクニックに秀でた女性、井坂茜ジャンヌは生き残るエネルギーに溢れた女性、という印象を受けます。

「自分の生き残りやすいように動いてください」と言われて道が違うような、そんな感じ。

強烈な輝きを放つことでは同じなのですが、岡村さやかジャンヌが魅惑的なのに対して、井坂ジャンヌが魅力的。月と太陽のような好対照でした。

ジャンヌのセリフで印象的だったのが、
「頭の良い方が勝つのよ。私は負けたくない」という言葉。

貧民街で娼婦として生き、何としてでも生き残りたいと思ったこの時代の女性の、生命力を一心に集めた「誰もがなりたいけどなれない」あこがれの女性でありながら、成功者として嫉妬の渦の中に巻き込まれ、最後は裏切られて去っていく。

●フランス革命の勝者とは
かつては「民衆の勝利」と言われたフランス革命も、その後の恐怖政治とのセットで語られるようになってからは、この作品内でも語られるように「革命前の方が言いたいことが言えた」と言われるほど。

「昨日のヒーローが今日は罪人」と言われ、疑心暗鬼渦巻く世界は、同じ時代を描いた『ひかりふる道~マキシミリアン・ロベスピエール~』(宝塚雪組現トップコンビのお披露目公演)をも思い出させます。

誰もが羨むマリーアントワネット。
その権威が失墜した中、誰が勝利者か
…絶対的な勝者がいないとき。

その時代を描くときに、ただの少女の『ロザリー』をタイトルロールにしていることに、深い意味を感じます。

飢饉で父を失い、母を失い、何のために生きているのかわからない少女。絶望し、セーヌ川に身を投げながら、それでも生き残っている女性。
生き延びたいと生に固執するのではなく、脆く弱いながらも、生きる意味を見つけていく姿。

ロザリーは、何も持っていなかったかもしれない。
でも、愛だけはずっと持っていた。

マリーアントワネットは、
すべてを手に入れたかもしれない。
でも、愛だけはずっと持てなかった。

マリーアントワネットが最期を迎える前に出会った人生の最後のピースであるロザリー。
マリーアントワネットが自分の生きた意味を感じられた理由。

マリーアントワネットを演じた尾川詩帆さんは、その外見からどことなく冷たい印象を思わせるところがあります。その「誤解されそうな」ところがマリーアントワネットにどんぴしゃり。

対して、自ら役の上で辛すぎる運命を経験しながらも、他者への愛はずっと絶やさない、ロザリー役の綿引さやかさん。

2つの役と2人の役者が、これほどないほどにお互いを必要とし合った姿を拝見できたことは、何より幸せでした。

そして、ジャンヌとも併せて考えると、フランス革命の荒波の中、「勝つか負けるか」という主軸としてジャンヌを存在させ、対比してロザリーとマリーアントワネットとの関係が決して勝ち負けではない」不可分の関係として描いていたことを、とても印象的に感じました。

●ロザリーがついた一つの嘘
ロザリーという女性は、自分の気持ちに嘘を付かないことに関しては最初から最後まで首尾一貫していて、だからこそヒロインとして清々しいわけですが、ただ一点、ロザリーの言葉に「嘘」を感じる言葉があります。

最後のシーン、マリーアントワネットに対して言う
「あなたに罪はない」の言葉。

あえて言うなら、これはロザリーからマリーアントワネットに対する「優しい嘘」なのかと思うのです。

無実と無罪というのは用語として全く違う言葉で、貴族社会やフランス社会の中でスケープゴートにされた感のあるマリーアントワネットが「無実」だとして、では無実だから無罪かというと、必ずしもそうとは言えない。

しかも、マリーは自らのことを罪人としている。
「自分を愛せなかった」と告白した様は、「自分を愛せなかったのだから、フランス王妃として国民を愛せたなかった、だから私には罪がある」と言っているようにも見えて。

でも。
ロザリーにとってはマリーアントワネットが自らを罪人と思うかどうかには、関心がないのかと思いますし、少なくとも以前は憎しみでしかなかったマリーアントワネットへの感情が、「罪人として咎める必要は全くない」には変わっている。

同じ村で育ち、兄のように慕ってきたアランは投獄され死刑となったけれど、処刑される前に「自分の行なったことは間違っていない」と言い、「今はまだ社会が未成熟、まだよちよち歩きな社会が大人になるには、たくさんの犠牲が必要とされる」と。

マリーアントワネットが根拠のない裁判で死刑になる様を見ていても、いや見ているからこそ、ロザリーの感情も表情も民衆とともにはない。

民衆が我を失い、マリーアントワネットをスケープゴートにすることで、民衆たちは自分を恐怖から遠ざけようとしている…ように見えたのではないかと。

「こうあらねばならない」
…そんな強迫観念に迫られて意志なく決断するのではなく、自分が正しいと思う道を選ぶことこそ、ロザリーが示した道。

持って生まれた立場からは逃れようもない。
それはマリーアントワネットとロザリー唯一の共通点。
マリーアントワネットが逃げずに自分を貫いたからこそ、生き残ったロザリーが大事にしていくのは、どう生きるかということ
それを観客に問いかけているように思います。

・・・

「この時期に公演をすることの是非」は、きっと沢山問われただろうけれども、生きるために最善を尽くし、初日を開け、楽日まで走り抜けたこと、それはこの作品のテーマとも相まって、何だか奇跡のようなものに感じられました。

出演者の皆さま、スタッフの皆さまそれぞれが、抱える思いとともに公演前の期間、公演の期間を送られたのだと思います。そのご尽力に敬意を表しますとともに、とりわけ、久しぶりの主演で作品の幹、笑顔の核として存在し続けたロザリー役、綿引さやかさんの素晴らしさを改めて感じた公演になりました。

月組千秋楽、星組千秋楽の、正に魂を感じさせる思いの強さ。そこには執念すら感じるほど。

それは、今このとき、舞台をできていることの喜びであり、また、いま、舞台をできていない仲間へのエールに他ならないとも感じましたし、だからこそ、大楽カーテンコールでの涙ぐんだ姿は、重圧からの解放だったんだろうなと、心からじんとしました。

それでいて、涙ぐむ、びびちゃんを見つけ、(田中)利花さん、(今泉)りえさんやら、皆様がよってたかって(大笑)びびちゃんを笑わせにかかり(笑)、笑顔になって幕が下ろせるという、何というステキなカンパニー。

思えば、たくさんの舞台が中止になる中、2月いっぱいの千秋楽まで走りきった『Island Song』、そして舞台を開けることを決断されたこの『ロザリー』。楽日のこの日9日には、大規模劇場では初の再開となる『アナスタシア』(シアターオーブ)、そして宝塚大劇場(星組千秋楽)も再開。

バトンを渡した感のある、素敵な千秋楽になりました。
元々は完売公演だったこの作品、願わくば今回の事態が落ち着いたら、またこのカンパニーで拝見したいと、強く強く願っています。

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