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『マリー・アントワネット』(9)

2018.11.4(Sun.) 13:00~16:00 2階M列50番台
2018.11.14(Wed.) 13:00~16:00 1階W列30番台
2018.11.17(Sat.) 17:00~20:00 2階I列50番台
2018.11.20(Thu.) 18:00~21:00 1階中列20番台
帝国劇場

帝劇MAもあれよあれよという間に最後の週末に突入、考えてみるとblogではすっかりご無沙汰していたことに気づきました。たっぷり通っております(笑)。

11月4日から14日までは、『ジャージーボーイズ』の神奈川凱旋公演があったこともあり、自称「MA休暇」を取っておりました。MAを観るために休暇を取るのではなく、MAを観るのを休むという意味で(笑)。

そういった風に適度に間を置いてみているせいか、変わりつつある作品の空気を新鮮に感じながら見られるのはありがたいものです。

博多座から10回連続観劇での玲奈マリー。これだけの重い役を、日々感じさせ方が違う形で見せているのは贔屓目で見ていることを加味しても凄いの一言。長期間の公演をペースを保って演じることはなかなかできることではないと思っていて、驚かされます。

玲奈マリーに大きな変化を感じるのが「王妃らしさ」
玲奈マリーの元々の持ち味はいい意味での庶民らしさというか、民間から王家に嫁入りしたようなところなので、実際のマリーとは異なるところがあるわけですが(オーストリア王家からフランス王家への政略結婚ですからね)、「お高く止まっている」ところを出し始めたように見えるんですね。

ともすれば、玲奈ちゃんの役作りって、今まではどことなく綺麗に作ってしまうというか、標準的なところに納まってしまうきらいがあったように思うのですが、前作『ジキル&ハイド』のルーシーといい、今回のマリー・アントワネットといい、突き抜けた存在感を怖がらないようになられたかのような、頼りがいを感じます。帝劇タイトルロールの立場にプレッシャーを感じるよりずっと、「マリー・アントワネットとして存在する」ことを追求しているように見えて、頼もしい限りです。

とりわけ22日ソワレは、玲奈マリーの一つの到達点と感じられるかのような凄味。
理屈じゃない何かが降りてきていたように思います。マルグリットのソニンちゃんとは東京千穐楽で、お互いの持ち味を分かり合ったからこその対決はまさに横綱相撲。玲奈&ソニンの組み合わせは、マリー&マルグリットの4組み合わせ中、プライベートで唯一呼び捨て同士で呼ぶ間柄ということもあり、プライベートで近い分、役としてぶつかると正面衝突の破壊力が半端ない。何というか、お互いの立場を「分かり合えないことを分かり合っている」、そんな感じ。

玲奈マリーはソニンマルグリットとぶつかると意識的に上から抑えかかろうとしているように見えて、かつ、少しでも隙を見せればすぐ攻め込まれることを分かっているかのよう。玲奈マリーは自らの危うさに自覚的なマリーなので、特にソニンマルグリットに対しては絶対に弱みを見せられない。だから直接対決で疲労困憊になったところに救いの人、フェルセンが現れたときの、万里生フェルセンへの「息も絶え絶え、命からがら飛び込む」様が本当に素敵で。玲奈ちゃんが一番光るのは、ぎりぎりの恋愛のがけっぷちにいる様というのは私の持論です←『ルドルフ・ザ・ラストキス』のマリー・ヴェッツエラ男爵令嬢大好き(爆)

ソニンちゃんは1幕がどんどん生気がなくなっていって驚くばかり。

ある意味、玲奈ソニの特徴ってお互い「祭り上げられる立場」ってことだと思うのですが、民衆のリーダーとして祭り上げられていく様がソニンマルグリットの特徴で、昆ちゃんマルグリットだともっと自覚的・戦略的にその立場を利用していく感じに見えるんですね(開幕前は逆のイメージだったので今となっては意外です)。昆マルグリットが革命に対して「志」が見えるのに対して、ソニンマルグリットは王妃への憎しみしか見えていなくて、ある意味「虚無」に見えて。それなのに、いや、だからこそ、王妃として以上に、「人間として、母として」生き様をはっきりと示した玲奈マリーに触れたときに、生きる道標を見つけたかのように、眼に光が宿る様が素敵でした。

2人は終演後、通常のカーテンコール後に拍手が再び贈られる中、2人だけで登場。強く強く抱き合うハグに、心からの拍手を贈れたことが何より嬉しかったです。

・・・

この日驚いた変化の一つに、「玲奈マリーは自覚的なマリー」ということへの補足にもなるシーンとして1つ。2幕、ヴェルサイユ宮殿に迫る民衆の歩みの中、お暇を取らせようとしたランバル侯爵夫人にマリーが説得されるシーンでマリーに歌われる「罪人ではない、私たちは」。ここで、玲奈マリーはゆっくりと首を横に振ったのです。正直、驚きを禁じ得ませんでした。

今までのマリー・アントワネットのイメージって「理不尽に裁かれ、不本意の中で断頭台の雫と消えた」ものでしかなかったと思うのですが、玲奈マリーはこの時点で既に自らの罪を自覚している、というのが驚きです。このシーンは観客として見ていると、「マリーの心を支えたのはランバル侯爵夫人からの『罪人ではない』という言葉」だと思って見ていたのですが(実際に少し前ではそう書いています)、そこに変化がみられるように思えます。

「罪人ではない」と言ってくれていることそのものがランバル侯爵夫人の優しさで、苦しい中にも無二の親友が支えてくれることこそマリーにとっての救いで。ただ、この日の玲奈マリーの凄味は、ここで「罪人ではない」を否定してからの流れが「罪人ではあっても、自らの尊厳、王家の尊厳、母としての尊厳を傷つける、罪のでっち上げに対しては真正面から闘う」に繋がっていて、それが凄かった。

王妃ゆえ愛する人・フェルセンとは結ばれず、守ろうとした家族も王・ルイは先に断頭台の雫と消え、息子も連れ去られ、何も残っていないように見えたマリーだったけれども、マリーにとってのコア、守るべきものは「王妃としての誇り」そのもの。

最後まで自分を思ってくれたフェルセンに対しての姿も印象的。この日の万里生フェルセンは、マリーが「一人では出て行かない」ことを予測していたように見えましたが、それでも実際に玲奈マリーに拒否された時のショックが露わで。古川フェルセンだとマリーが拒否することは万が一の予測の中にもなかったように見えて、拒否された時に一気に少年に戻るような様が強い分、マリーからの「泣かないで」の精神年齢逆転は古川フェルセンの方が強かった感じがしました。

フェルセンと言えば、氏の大局観として興味深いシーンが1つ。

1幕、マリーが大司教を告発した後、マリーとフェルセンが会うシーンですが、フェルセンは「大司教への告発を取り下げてください、無罪判決が出たら終わり」と説得し、マリーは「大司教が無実ですって?」と反発しているんですが、言葉として「無実」と「無罪」はイコールではないんですね。

事実関係が何もないことが「無実」であり
罪に問う結果とならないことが「無罪」なので、

仮に事実関係があったとしても、それを罪に問わないのであれば判決は「無罪」になる。

マリーは自分のプライドのために大司教が謀ったことを認めさせたいが、フェルセンはマリーの手前「大司教が無実」かどうかには目をつむって、でも「無罪判決」が出たら終わり、と説得しているんですね。

この首飾り事件は史実ではマリーへの評価を地に落としたこととして有名ですが、フェルセンとしては「大司教がマリーの名誉を傷つけたか」の”事実関係”がどうかではなく、「罪にならないことをマリーがでっち上げた」と判断される”無罪判決”がマリー、ひいては王家の存在意義に対して致命的と判断してるわけで、フェルセンにしては正しくて。

というのも、フェルセンの大局観は他の場面では多少なりとも怪しいところがあって、そもそもマルグリットが牢獄に投げ込まれるのをフェルセンが放っておいたらどうなったんだろうとか思うわけですよ(笑)

マルグリットはフェルセンに救ってもらったのに悪態(笑)つくわけですが、

万里生フェルセンは「軽蔑してるんだな」
古川フェルセンは「軽蔑してるのか」

…回違いなのかもしれないけどニュアンスの違いを感じます。万里生フェルセンは自虐的なところがあって、古川フェルセンは無自覚的なところがある気がして、万里生フェルセンは玲奈マリーと同調感があって、古川フェルセンは花總マリーと同調感があるように思えてきます。

・・・

2幕の台詞で上手いなぁと思うのは、ジャコバン党の尋問下で、単に「手紙を受け取ったか」ならマルグリットが答えないのは不義だけど、「国に反逆するような手紙を受け取ったか」ならマルグリットは否定する余地があるところ。マリーの手紙は革命への反逆であって国への反逆かどうかは微妙なんですよね。

マルグリットはそこであえて「国への反逆」という前提を外して「手紙を受け取っていない」と答えている。後で詰め寄られたときの余地を残してるのはさすが賢い。

マリーにしたところで宮殿の旧弊を片っ端から無視した政治力は母親(マリア=テレジア)譲り。誤算は自らの意向が市民までには及ばなかったことかと思います。

玲奈マリーは特に政治的な要素が強くて、あの「助言もしない」あたりは、そう言いつつ、普通にしそうですもんね(笑)

オルレアンやロアン大司教が、彼女が嫁入りしたころには「あんな海の者とも山の者ともわからないような小娘がなにができるんだ」と軽んじたであろうこと、そしてそれをいつまでも覚えていそうなところを玲奈マリーには感じます(あくまでイメージです念のため爆)

マリーの政治力で非主流派になった貴族が市民と手を組み、王家打倒に走る、といった流れが見えてくるのも玲奈マリーの政治性あってこそ。そんな空気も想像できる玲奈マリーの勝気さがツボだったりします(爆)。

帝劇公演もいよいよ週末で終了。明日は久しぶりの花總マリーを見てから、東京楽の玲奈マリー楽を見届けます。ここにきての両マリーでどう違う印象を受けるのか楽しみです。

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