『レ・ミゼラブル』(20)
2015.9.23(Wed.) 17:00~20:05
静岡市清水文化会館マリナート大ホール
1階13列40番台(上手端)
2015年レミゼツアーの前楽。
翌日の大楽で、2017年の日本上演30周年記念公演(5月~10月、地方公演を含む)としての再演が発表されましたので、レミにはまた会えるわけですが、自分にとっては2015年レミゼツアーの最終公演。
連休の明けの平日(24日)に休めるわけもなく、またご贔屓さんの最終公演もこの前楽に集中していたので、結果としてはいい塩梅になりました。
朝1の新宿発の高速バスで清水入りしたものの、マチソワはせず、観光&グルメに明け暮れた午後。会場入りしたのは開場ちょっと経った頃。たまたま懐の準備が危ないかと出向いたコンビニで観劇友とばったり出くわすというびっくりな偶然も経ての会場入りです。
「清水駅直結」との言葉は全く偽りでなく、地上に降りずとも高架の屋根付き連絡通路でそのまま劇場入りが可能。写真で見た限りはレミの前公演地、富山のオーバードホールに似た印象を受けます(未訪ですが)。
2015年レミゼツアーは全部で189公演(帝劇70・中日31・博多38・梅田33・富山5・清水12)。
そのうち自分が観劇したのは13公演(帝劇10・梅田2・清水1)でしたので、以前に比べたらずいぶん押さえたなと(笑)。
マリナート大ホールの座席数は1,513席。帝劇に比べたら400席ほど少なく、舞台は上下に長く左右が短い印象。今回、主催の新聞社の先行にしては超端席でしたが、音響面のストレスはそれほど感じなかったので良かったです。エポソロ(「コゼット、思い出す…」)もちゃんと見えましたが、真横から見るこのパートというのはかえって新鮮でした。
劇場にはトリコロール新聞の最終号が置かれており、「オーバードホール&マリナート 最終号」と銘打たれた割に、その実、2015年レミカンパニー全員のコメントが集められ、A4で3ページびっしりと活字で埋まっています。まさに「新聞」の面目躍如。大阪公演途中で楽を迎えた玲奈ちゃんのコメントも掲載されていました。
・・・
この回のエポはびびちゃん(綿引さやかさん)。
楽にして更にエネルギッシュに仕掛けてくる様は、楽と言うことも相まって、ひとときも目が離せません(笑)。
登場シーンからして、田村マリウスに向かってダッシュして、ジャンピングアタックするかのような飛び掛かりぶり。本を絶対に取られないようにマリウス翻弄するあたりは精度がずいぶん上がってます。びびエポは手を存分に伸ばして絶対届かなくしてましたが、あれで取ろうとしたら、マリウスのことだから真正面から行くでしょうからエポ抱きかかえることになりますもんね。どっちにしてもエポ得(爆)。本投げもそれはそれは綺麗に上達されていました。
そういえばマリウス登場前のモンパルナスとのシーン、びびエポがびっくりするぐらい敏捷に動いて、モンパルナスの関節外れたんじゃないかぐらいなアングルになってびっくり。モンパが「いってー」みたいにやってたのもナイス。当初はここ、ナイフ投げてましたけどナイフ投げやめて渡すようになりましたね。正直見てて怖かったので渡す方が安心です。どうせ返すんだし。
翻ってマリウスとの関係ではびびエポと田村マリウスの相性抜群で、一番じゃれあいが自然なコンビな感。
回を経るごとにどんどん「友達以上恋人未満」の空気感が出てきて、「この関係が壊れないなら、今のまま行きたい」とエポが思ってしまった”油断”が感じられてしまう感じが好き。そこをコゼットにかっさらわれてしまうわけですし。
エポコゼの関係も、2015年ツアーの一番好きな組み合わせはこの回のびびエポ&あやかコゼ(清水彩花ちゃん)。
なんだか、2人が「エポニーヌ」の領域と、「コゼット」の領域をどっちも侵さない感じが好きだったりします。
びびエポの魅力である”可愛さ”って、「エポニーヌとしての可愛さ」だと思うんですね。びびちゃん自身の可愛さとも少し違って、あくまで「エポニーヌ」としての「恋する女の子」としてのどストレート感。
帝劇公演中わずかながら同い年だった玲奈エポには”大学生エポ”という雰囲気を感じるのに対して、びびエポは”高校生エポ”の雰囲気を感じます。
翻って彩花コゼの”可愛さ”は「コゼットとしての可愛さ」。自身が愛に溢れていて、他の人に愛を注ぐことをどれだけしても十分じゃないという思いに溢れていて。
そしてこの2人の共通しているのは、いつも「何か足りない」と思いながら作品の中に生きていることじゃないかと思うんですね。コゼットは「いつも何か探していた私の人生」と歌いますが、その「自身に何かが欠けている自覚」というものを体現されていたのが、彩花コゼの一番の魅力だったんじゃないかと思うんです。
それはびびエポにも言えて、というのが印象的だったのが、この2人がプリュメ街で出会うと、恐ろしいほど見つめ合う時間が長く感じるんです。たぶん、実際のところストップウォッチで測っているわけではないのですが、体感的にはすごく長いです。
この日は、倒れこんでいるエポを覗き込んだコゼ…のパートで長く見つめ合った上に、さらに扉を閉めてからも扉越しにぎりぎりまで2人は見つめ合っていて。
その”長い濃厚な時間”を見ていて感じたのは、コゼットにとってのエポニーヌ、エポニーヌにとってのコゼットは、「自分の過去を知ることができる唯一のよすが」なのだろうなと。
自分の過去を教えてくれない父(バルジャン)を前にコゼットは自分の過去を知ることができずにいる。
そして、コゼットにとってのエポニーヌは「会ったことがある記憶がある女性であり、自分の過去を教えてくれる可能性のある女性」であるのに対して、エポニーヌにとってのコゼットは「自分がこうなってしまった理由を知ることができる可能性のある女性」なのではないかと。
もう一面として、エポニーヌとしては「過去の消し方を教えてほしい」のかもしれないなと。一緒に育ったはずなのに、なぜあなたはそうなって、私はこうなのと・・・。
それを敵対心を持たずに思うところがびびエポの魅力の一つですね。
(今回はみんなエポからコゼへの敵対心は薄いですが。新演出の好きなところの一つです)
…
「恵みの雨」でなぜエポニーヌはあれほどまでに幸せにいられるのかということを思うに至り。
もちろん、最愛の人を助けられ、最愛の人の腕の中で死んでいけるという面はあるとは思いますが、あそこで「雨が洗い流す」ものは何なのかと…。
それは「過去の自分」じゃないかと思うんです。
新演出版でエポニーヌは、盗賊団の一員としての表現もされるようになり「女だてらにパリを生き延びた1人」としての面が出てはきましたが、それは当然のことながら自分の本意ではなかったはず。必要に迫られたからであって、少なくとも胸を張る行いではなかったはず。
エポニーヌがマリウスにまっすぐ向き合えなかったのは、自分への引け目もあったように思えてならなくて。
でも、エポニーヌがマリウスを救いに行ったとっさの行動は、打算でも利害でもなく、ただ自分の感情のままに、「救いたいから飛び出していた」ことに一かけらの曇りもなくて。
「消したくてたまらなかった、自分にこびりついていた『過去』を(雨に)洗い流された自分自身だからこそ」マリウスの中で心残りなく息絶えていける。だからこその、充実した表情なのだと思えてきます。
それ以前に、エポはコゼットとマリウスの出会いをいくらでも邪魔できたところをそれはしていない。
それも自分の過去への後ろめたさじゃないかと思えてきます。
あのコゼットを前に、自分がマリウスと結ばれる権利など持っていないと…。
コゼットの邪魔をしても、ますます自分がみじめになるだけだと…。
…
翻ってコゼットでこの日印象的だったのは、父に「お前、寂しい子だ」と言われて首を横に振ったのが凄く印象的で。
「いいえ、パパのおかげで私は寂しくなんてないわ」
という仕草に見えて感動的でした。見ている側にコゼットの心の動きを想像させてくれる仕草が豊富なのが彩花コゼの強みなのではと思います。たぶん無意識に。
決まった台詞、決まった音階、決まった段取り。
その中でも見ている側の感情を動かすのは、ふとした動きだったり、ふとした表情だったり。
意識してだけでは生まれえない自然の感情が見えたとき、それがレミゼの物語を深く、厚くしているものだと思えてなりません。そのことを、びびエポ&彩花コゼのペアで再確認できたことが、何よりこの回を見た意味に思えました。
エポニーヌがコゼットに求めた「欠けたピース」、
コゼットがエポニーヌに求めた「欠けたピース」。
お互いがお互いを必要としあった姿が、びびちゃん&彩花ちゃんのレミへの想いと相まって、より増幅されて表現されていたように感じられたのでした。
2015年レミの特徴の一つだった、「エポニーヌとコゼットが、敵対せずにレミの中で共に生きる」姿が、この日の公演には凝縮されていたように思えました。
…
清水駅前には、はためく多くの幟り。「静岡にレミゼを!」の旗振りのもと、全公演満員となった静岡・清水公演。
ホール向かいの清水河岸の市のお店でもレミゼ様様とおっしゃっておられましたが、レミが望まれて招かれて、そして受け入れられている様に、劇場外でもハートが温かくなれたことが、何より嬉しかったです。
…
大楽ではプリンシパルキャストからのご挨拶はありましたが、前楽はなし。とはいえ劇場中のスタンディングオベーションの中、にこにこ笑顔の彩花ちゃんと、いまだ見たことがない、びびちゃんのうるうる顔という、とても対照的な2人を拝見して、それも含めて、いい終わり方ができたことを神に感謝。
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