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『ウレシパモシリ』(6)

2015.6.21(Sun.) 12:00~14:00
 自由席(下手側通路脇)

2015.6.25(Thu.) 19:00~21:00
 D列1桁後半(中央)

2015.6.28(Sun.) 12:00~14:30
 B列1桁前半(下手側通路脇)

ザムザ阿佐ヶ谷

ひとまず、終わってしまいました。

事情により今回で一区切りの予定となっている『ウレシパモシリ』、千穐楽まで4回中3回までが下手側通路脇という、不思議な事態(そのうち2回は指定席で通路脇が来たのでただの偶然です)。出演者が横を駆け抜けていく様をずっと感じていました。

今期10日間15ステージの内訳では、唄1・唄2は従来までの男女ペア(金すんらさんとRACCOさん)が10ステージ、今回初の女性ペア(岡村さやかさんと平川めぐみさん)が5ステージでしたが、自分の選択は前者が1ステージで後者が3ステージでした。

男女ペアのお2人は今までのウレパモを感じさせるオーソドックスさでしたが、感じ方として唄1が「父」で唄2が「母」なのかなと。すんらさんからは「父の”優しさ”」、RACCOさんからは「母の”厳しさ”」を感じたかな。その2人を中心に、皆が「家族」として一体化するという感じが作り出されていました。そこの「皆」には登場人物、スタッフ、客席みんなが含まれるのがこの作品の”らしさ”かと。

女性ペアのお2人の新しさといえば、最初見たときは唄1が「姉」で唄2が「妹」に見えたのですが、千穐楽で見たときは、誤解を恐れずに言えば、唄1が「祖母」で唄2が「母」かなと。

さやかさんの包み込む優しさは、以前の唄2の「母」ともまた違っていて、あの無条件の優しさは、無条件の愛情に思えて、それは孫に対する祖母の感じに一番近いかなと。個人的には今月祖母を亡くしたこともあり、”無条件の愛情”の温かさに触れると、なんだかぐっと来てしまう部分が多くありました。

それに対してめぐみさんは「母の”激しさ”」を感じて、愛する人のためにただただ闘うというオーラに満ち溢れ、さやかさんと違った”守り方”なのだろうなと思えました。

男女ペアの唄1・唄2で見ていた時、唄1と唄2は主従関係を感じて、それは「父に寄り添う母」というイメージが強かったこともあるのでしょうが、「唄2は唄1に頼る」部分がどうしてもあったと思います。そして両者は異質である感じがありました。

今回の女性ペアだと唄1と唄2はいい意味で距離が離れていて、でも感じとしては同質な感じがして。

唄1は「信じる」ことをずっと訴えかけているように思うのです。前回のblogで「唄1はジェルマンの気持ちを歌っている」と書きましたが、新宿のカスパで2人に見捨てられて1人になったときに唄1の唄は、ジェルマンの気持ちの奥底に訴えかけていて、「自分の力を呼び覚ませ」と訴えかけている。誰より自分が自分を愛せ、その力で自分は他人を信じろ、と「唄1の唄がジェルマンに入り込んで」からは、唄1の唄はジェルマンと一体化していくのではないかと。

それに対して唄2は「信じない」ことをずっと訴えていて。特徴的なのは、その見捨てられたシーンで回想する歌詞で「砂浜での2つの足跡が途中から1つになっていた、自分は見捨てられたんだ」という歌詞を唄2は歌うわけですが、唄1はそれに対して「実は自分がおんぶして歩いて行った、だから足跡は途中から1つになっていた」と歌う…

唄1と唄2が共に女性になってはっきりしたことと言えば、唄1は”心を開く”面であり、唄2は”心を閉じる”面であって、いずれも”人の一部(あえて言えば同じ人の一部)”であることではないかと。

そう考えると「Answer Me」を歌うのがなぜ唄2であるのかが理解できて。あのシーンの3人の娼婦(みどり・あい・やよい)は”自分が世の中から求められているかを信じられない”、心を閉ざした人たちの典型として存在していて。

ジェルマンさんが日本になぜ来たかということについて、この作品では結論をきちんと表現されてはいないわけですが、彼の立ち位置は「自分が世の中から求められているのかを信じられない」、だから「信じることで自分のいる意味を自覚したい」のだろうと。

だからこそ”孤独”な古市に対して「あなたを見捨てないことが自分の決心」であると話すわけで。「信じなくさせられた」古市は、恐らくは昔は「信じる」ことで生きてきた人だろうと。元からの悪人でないからこそ、ジェルマンは古市に「信じる」ことを思い出してもらうことこそ、自分のやるべきことだし自分の存在意義だと思ったのだろうと。

そう見ていくと、ただ無条件に「信じる」と言い続けられる唄1は、なるほど岡村さやかさんでなければならないことが理解できて。役者さんとして役として「邪」という気持ちを欠片も感じさせない、さやかさんだから唄1が成立するのだろうと。

逆に、そのさやかさんが唄2をやったときに感じなかった感情が、今回の唄2の平川めぐみさんにはあって。めぐみさんの場合は無自覚に清濁併せ呑むみたいなところを感じていて。

悪意とか邪念とかが入ってくると、さやかさんフィルターを通すと全部浄化されてしまうように思うのに、めぐみさんフィルターを通すと無自覚に何倍にもするようなところがあって(笑)、とても興味深かったです。

めぐみさんの場合は聖も演じていることも大きくて。

聖は最後まで「素直になれない」わけで、それこそ「言いたいことってそれじゃない」と言われるぐらい、本心と違う言葉を言ってしまう。
素直になれずにきたから、信じられなかったことへの後悔があるのだろうと。

「本当は(聖としては)こう言いたかった」という表情で歌われるW聖のシーン(聖はひおき彩乃さん)は、ひおきさんの、涙を流しながら感情がこみあげる表情と、聖としての後悔をも含めためぐみさんの表情が一直線になって、本当に素晴らしかったです。

木曜日に見ていて鳥肌が立ったシーンがあって、本編ほぼラストの「ミタクオヤシン」で唄1の岡村さやかさんが歌いだした歌詞の

「すべてのつながるものを」

という歌詞を聞いたときに、不意に納得したものがあって。

本編、ここまでのシーンに登場したすべての人、すべての事柄が「つながって」歌われるのがこの歌詞なんだ、ということ。

この日の岡村さやかさんの唄1からは確かにそれが感じられて。

自分の存在意義が感じられない人も含めた”すべて”が、かけがえのないピースであって、自分を愛し、他人を信じることで皆はつながりあえる…ということを、本当に自然に歌われていて。作品の軸がすっと貫かれた瞬間を感じられたのは何よりでした。

今振り返ってみれば、初日のさやかさんは自身の置かれたポジションの大きさに、ご自身の”らしさ”の半分ぐらいしか出せていなかったように思えて。ただ、それ以降、いい意味で、周囲に気持ちを委ねられたことで、さやかさんらしさを取り戻せたように思えて。
ひいては唄ペアを女性でやったことの意味もはっきりと感じられたことが、何より嬉しかったです。

自分にとって、聖中心で見てきたこの作品を、唄1・唄2からの視線で眺められたことはとても新鮮で、たくさんの新たな発見ができて、特に唄ペアを女性ペアで、この区切りの時期に間に合って見られたことはたぶんたくさんの偶然が重なったゆえなのだろうと、そのたくさんの偶然に感謝です。

この日のカーテンコールは千穐楽ということで各キャストから一言ずつご挨拶があり、「ウレシパモシリ」「光の子供たち」を客席と一緒に歌って幕。客席の参加率半端ない(笑)。

しばらくこの作品とはお別れになるわけですが、この作品らしく、笑ってこの日を見送れたことは何より良かったです。

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