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『ザ・ビューティフル・ゲーム』(2)

2014.2.11(Tue.) 12:00~15:20
新国立劇場小劇場 D列6番10番台(上手側)

とにかく早かったです。公演が始まって終わるまでの期間も、そして2回目の観劇の始まって終わるまでの間も。
こんな素敵なお芝居が2週間しか上演されないなんてもったいない。

まぁ、千弘ちゃんの体力・精神力からして、この日が千秋楽だったのが、現実的な限界だった気もするわけですが。
役を引きずるタイプの女優さんですから、作品世界での苦しみを全部受け止めることになるメアリー役ってとってもハードだったと思います。その役を演じ上げたことにまずもって拍手を。

パンフレットが一部日程で品切れになったり(5日の終演後、そしてこの日の開演直前以降は品切れで再販予定なし)、photoがboysしかなかったりとか、公演運営上のいくつかのツッコミどころはありますが、総じて思った以上の世界を見せていただけて満足。

この作品の現タイトルが「The Boys In The Photograph」である通り、本編の大事な要素になるサッカーチームを写した1枚の写真。吉原さん演じるサッカーチームのコーチ、牧師さんが言う言葉「この瞬間をきちんと覚えておけ。ここがお前らの原点だ。これからどう生きていくのはお前ら次第だ。」という言葉は、散り散りになった仲間の姿を見ると胸が痛くなるばかりで。

特に印象的なのは馬場さん演じるジョンと、中河内さん演じるトーマスの対比。

トーマスはIRAの闘士として、仲間を裏切ることを正当化しながら、捕まらずにいる。
何とか外に出られたジョンとトーマスとの会話。ここは演出家さんもそれほど強いサジェスチョンをせずに、2人の感情にまかせている部分が大きかったそうですが(5日のトークショーによる)それだけに、ジョンの静かな怒りと、トーマスの”実は自分の立場の脆さに怯えている”様が実に好対照で。

ジョンの奥様であるメアリーは”非暴力”を唱えて、トーマスに「そんなのは何の役にも立たない」と言われているわけですが、ジョンとメアリーは「意味のない戦い」に対して回避しようとしている点について同じなんですよね。

トーマスは戦うことでしか自分の立場を維持できない。
「相手が勝たないように戦っているに過ぎない」と分かっているのに、戦うことしかできない。
「非暴力では何も動かせない」と言っているトーマスだけど、暴力が暴力の連鎖を産む現実からは目を背けている。

トーマスはメアリーに対して「心が通っていない」みたいなことを言うのですが、じゃぁ自らの手で他人の血を流すのはいいのかと・・・
トーマスには彼なりの国を思う気持ちはあったろうけど、「目的のためには手段を選ばない」ことで、自ら救われない道を進んで行ってしまったのだろうなと。

それにしても、あれだけの闘士のトーマスであっても、メアリーの前では結局自分を通すことはできなくて。
メアリーはトーマスの弱さも脆さも見抜いていて・・・という存在感はちーちゃんにぴったり。
それでも1幕のメアリーは地に足が付いていないんですよね。「非暴力」を唱えて、「アイルランドを守る」と署名活動をしているメアリーは、とっても”若い”し”幼い”。

牧師さんが「サッカー選手に女は要らない」と言ってる対象に、若いメアリーは当てはまる。

でもジョンが捕らえられた後のメアリーは、というか子供を産んでからのメアリーは・・・それゆえか腹を括っていて、その格好良いことときたら。

「人殺しに正義なんてない」と叫ぶメアリーは、ある意味IRAも一目置く革命闘士みたいになっていて、青臭いだけじゃない、現実も理解出来る女性になっていて、それが何より素敵でした。
理想を忘れずに現実と向き合うってよほど心が強くないと無理。理想を切り捨て現実に生きたり、理想に走って現実を無視するなら、まだ生きやすいと思いますが。

「革命闘士ジョンはサッカー選手ジョンを殺した。彼があなたの最初の犠牲者なのよ」という言い方は凄いなって。
つまるところ「これ以上犠牲者を出すということは『他人』を犠牲者にする」ということでもあるし、実は愛する夫を失ったメアリーだって、父を失った子供だって犠牲者なのに、そこはぐっと押さえているんですよね。犠牲者はこれで終わりにしてという、心からの叫び。

メアリーとジョンの心がちゃんと通じていたのかなというのが、ジョンはトーマスに対して自ら手を下していないことなんですよね。ジョンはトーマスに精神的に攻撃を加えて、トーマスの自滅を図っているわけで・・・。
「昔のお前なら殺せないが、今のお前は殺せる」と言いながら、拳銃をトーマスの手元に置いて自らその場を去る・・・。自分のためなら仲間を欺いたトーマスに対して、ジョンが自ら手を下すほどの価値もないという冷酷な判断こそが、ジョンが閉じ込められたことの”心の闇”なのかと思うと、どちらも不幸と思わされます。

が、ジョンとトーマスの違いと言えば、”メアリー”がいたかどうかという違いでしかないんですよね。
自分を本当に必要としてくれる存在がいれば、
人はおのずと真っ当な道を選ぶ
という。

トーマスにとってのそれは、ジョンだったんだろうなと。
ジョンを利用しておいて虫のいい話だとは思うけど、トーマスにとって「ジョンは利用しても自分が裏切られることはない」という根拠のない読みがあったのかなと。
トーマスが自滅した大きな理由は、ジョンにさえ自分が必要されなくなったことを自覚した事による、自壊なのかと思わずにいられません。

この物語は紛争状態という、極限状態を前提に描かれていて、戦火の中では個人の思いが通せることなんてない、と語ってはいますが、極限状態であっても、最終的には「自分がどう生きるかは、自分次第」であることを表現しようとしているわけで、若者たちのそれぞれの美学による行動は、それぞれ考えさせられるものがあって。

誰もが100%まで正しいわけではなくて、誰もが100%間違っているわけではなくて、それぞれの登場人物の選んだ道の意味を観客自身が投影することに、この作品を見た意味があるんだろうなと。

若いカンパニーだけに演じた俳優さん、女優さんの気持ちがダイレクトに伝わってきて、出来上がったカンパニーというより、作ってきたカンパニーという雰囲気がとても心地好く。
暗いテーマであっても、最後は希望を残しながら終わる、とても素敵な作品でした。

・・・

カーテンコールはジョンを演じた馬場さんからご挨拶。「お客さんにたくさん助けてもらった」との感謝の言葉の後ひとしきりコメント後「家に帰るまでがビューティフル・ゲームです(笑)」で客席の笑いを取った後、まさかのちーちゃんに無茶振り。「えっ、そんなにちゃんとした挨拶の後に振られると思ってなかった(笑)」との狼狽の後、同じく「客席から沢山エネルギーをもらえて嬉しかった」とのご挨拶。
そういえばカーテンコールで馬場っちが上手側、ちーちゃんが下手側に別れて両腕を絞って「ういっす」ってやるシーン、ちーちゃんが男前過ぎて惚れまくった(爆)。

そしてカーテンコールではまさかの事態発生。

演出家(藤田さん)を呼んできたら、挨拶をしてもらうかと思いきや「胴上げしよう!」と男性陣がみんな藤田さんを取り囲み、何が起きたか全く分からない(爆)藤田さんをよそに、藤田さんを高々と胴上げ。

3回あったかと思いますが本格的にまじに胴上げされていて、それがむちゃくちゃサマになっていました。
演出家さんには言わずのサプライズだったらしいのですが、チームワークといい、胴上げの決まり方といい(あれだけ高く上に上げられるのはどうみても自主連してると思う)若いカンパニーらしいとても素敵なエンディングでした。

というか、楽は今まで沢山見ているけれど、さすがに
演出家が胴上げされた楽なんて初めて見ました(笑)
胴上げされるほど若い演出家さんってそれほどいらっしゃいませんし、良い意味でいじられ上手な感じでもありました(爆)

5日のトークショーでは馬場さん、中河内さんに揃って「演出家ってずるいよなー。全部持って行く(笑)」って言われてたぐらいですし、ちーちゃんの「藤田さん天然だしー、胴上げ高いしー、細いしー、
痩せてるからだな」と言ってた言い方が男前で印象的でした(笑)。

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