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『ジャンヌ』(9)

2013.9.29(Sun.) 13:00~16:15
兵庫芸術文化センター(西宮)中ホール 1階C列10番台(上手側)

前日に引き続き前方席・・・とはいえこのホールは1階A列~E列まで段差なし、そして千鳥配置ではないので、正直言ってしまうとこの回は座席的にはあまりよいとは言えず。
何しろ、どセンターが隠れてしまうという・・・

そうはいっても、世田谷にも増して熱を帯びる西宮公演。

世田谷と大きく違うのは、縦(高さ)方向に座席が伸びる世田谷に比べて、西宮は奥行きがあるので、入口から舞台までの距離が非常に長く、その結果、2場、ジャンヌが男装をして初めて登場するシーンでジャンヌな玲奈ちゃんが降りてくるのに結構な時間がかかっていました。が、あの歩音からすると、あの暗い中1段飛ばしなんだろうなぁ。

逆に物音を一切立てていなかったのが7場のコーション司教な村井さん。
当然そこで登場するのが分かりきってはいるのですが、それでも「いつの間にそこにいたのっ?」状態でびっくりしました。

客席も東京公演とまた違って、良い意味でこの作品に対してフレッシュな向き合い方をしていただいている感じ。
たった2公演しかないからこそ、客席に熱意が凝縮されていたような気がしました。

日曜日の公演では、恐らく「ジャンヌ」では初のスタオベとなって出演者もびっくり。
しかも1回多くコールがかかったので、イギリスのウォリック伯爵はマントを脱ぎ捨て、オルレアンの私生児にいたっては定位置(ジャンヌから見て上手側2人目。1人目は村井さん)に戻れずになんと最下手でご挨拶という、いとも楽しい状態になっておりました(笑)。

さて「ジャンヌ」もすっかり後半日程に突入、気づけばこの日の西宮公演を見終わった自分に残ったチケットはただの1枚。
というわけで、西宮公演まで含めた各シーンお気に入りパートを中心に、公演を振り返ります。

で、当然の如くネタバレです-。

土曜の深夜、某ホテルで借りたノートPCの調子がすこぶる悪く、大部分が空に消えてしまいましたが・・・(再起動で)。




●第1場/1429年、ヴォークルール城内
 ジャンヌ唯一の女装(違)シーンな、領主様説得シーン。

 「貴方がお頭なのっ?」の一声からして
 毎回微妙に違うのが笹本玲奈様。

 このシーン、領主様を説得しているシーンではあるのですが、見ていて少し違和感があって。というのは、説得しようとして説得している感じではないんですよね。しかも、ジャンヌの中では結論は最初から出来ている。説得と言うよりは、ジャンヌが聞いた神のお告げに従い、領主様を誘導しているように感じます。領主がどう答えて、それに対してどう自分が言葉を発するかを最初から「計算」していたようなところをやはり感じます。

 ただその「計算」は少なくともジャンヌが意図していたものではなくて、むしろ神が意図していたものなのだろうなと。
 ジャンヌがジャンヌたる第一の点は、実はジャンヌの中には「神」しかなくて、自分の「考え」というものは存在していなかった・・・のではないかと思えてきます。

 それでこそ、後年「聖者」と列せられる価値があったのかと。

 以前、ジャンヌのことを「悪意に無警戒」と書いたことがあるのですが、自分が利用されることに無警戒、ということも感じます(この作品では第1場~第3場限定ですが)。

 この作品を通してジャンヌを見ていると、

第1場~第3場:「神に利用されるジャンヌ」
第5場からその後:「神を利用しようとするジャンヌ」
第6場:「神に罰せられるジャンヌ」
第6場の後:「神に赦されたジャンヌ」
エピローグ:「自らの功績の中に身を置けるという、神からのご褒美

 に見えてきたりします。

 そういえば領主のロベールについて、原作では「自分の意志というものを持ち合わせないので、その弱点をごまかすため、猛烈にどなりちらしている」という人物説明があってなるほどなと。

 ジャンヌはこのシーンでそれなりに身なりの良いドレスを着ていますが、父親は実は村の有力者の一人で・・・つまるところ「(小)金持ちの小娘」なんでしょうね(←作品違い)。

●第2場/1429年3月8日、トゥレーヌ・シノン
 このシーン、王宮内の右往左往と、ジャンヌ登場後のコントラストが激しすぎて、なんだか「第2場パート1」「第2場パート2」みたいになっていますが、王宮内の右往左往で最近ともに面白いのが、シャルル王(太子)とジル・ド・レイの、「ジル・ド・レイ衣装剥ぎ大会」(爆)。

 シャルルの浅野さんが仕掛けて、今までのパターンは「一本抜いて素直に返す」だったのに、西宮某日に至っては2本抜いて一旦返さずに自分の胸に挿ししばらくしてから返してましたが、ここのジル・ド・レイな馬場さん、世田谷中盤では一旦普通の反応に戻ってたのに、こころのところすっかりオネエモードに戻っています(大笑)。

 しかも、シャルルがジル・ド・レイのわしゃわしゃ(正式名称不明w)に「ごろにゃーん」のごとく顔を擦り擦りして、ジル・ド・レイが本気で嫌がるのがめっちゃ好きです。「あんな奴に化けるのか」が真実味ありすぎて(爆)

 ちなみに原作のシャルル評「人を食ったユーモアを持っているので、他人との会話に引けを取らないでいられる」・・・うわー、浅野さんのシャルル、イメージぴったり。

・・・

 ジャンヌが登場してから、しかもシャルルと2人きりになってからのシーンは、本来なら緊迫感があるはずですが、それこそ「人を食ったユーモア」なシャルルのせいか、どことなくコメディチック。国の動向を左右するトップ会談なはずなんですけど・・・。

 「今のままで良い、好きなように生きたい」というシャルルに対して、「自分の仕事だけをしていてどうするの、神様の仕事をすることこそ大事なこと」と説くジャンヌ。ここでのジャンヌの説得シーンって、公演前半では言葉は微妙ですがシャルルが上げていたようなところがあったように思うのです。
ジャンヌの説得プラス、シャルルの実は前向きな心情という感じで。

 が、最近とみに思うのですがこのシーンのジャンヌの勢いが凄い。あれは理屈ではないし、感情でもないし、まさに「神様への熱烈な信仰が我々を奮い立たせたのです」以外の何ものでもなく、シャルルが自然に乗せられていっているのが手に取るように分かる。

 シャルルの周囲にいる人々は、結局「自分のことしか考えていない」人ばかりなわけで、だから自分もそう生きるしか仕方ないと思っていたけれど、ジャンヌはそれじゃダメだと諭すわけですね。
 しかも貴方は神様から神託を受けるべきフランスの王であると。

 よくよく聞いているとジャンヌも実は失礼しまくりなわけで、「あなたを王様にしてあげます。奇跡としてはかなりやりがいがあると思うわ」はなかなか失礼ランキングでも上位ですし(笑)、「私もバカじゃない」と一大決心して発言した「条約」のくだりもわずか3秒でジャンヌに論破されていますし(笑)。

 それでもジャンヌを突き放さなかったのは、最終的には「”自分のことを考えていない”ジャンヌ」という、「私心のなさ」に賭けたのだろうなと。
 最近、ジャンヌが神にお礼を言っているときに、シャルルが満面の笑顔で「勇気をありがとう」と握手を求めに行くんですよね。
 前はここ、ジャンヌからシャルルに「私を信じてくれてありがとう」みたいにお礼を言っていた印象があったのですが。

●第3場/1429年5月26日、オルレアン
 デュノアがジャンヌを「聖者」として迎えるオルレアンの軍陣営のシーン。

 原作ではデュノアはジャンヌを待ちわびていると書かれているのですが、なぜだか今の舞台版はそうはなっていません。
 むしろジャンヌを試すようなことをデュノアはやっていたりするわけです。

 血気にはやるジャンヌをなだめ、自分に寄せられた手を、極めて強く振り払うデュノアに驚かされます(しかもこれは公演前半ではここまで拒絶していなかった)。

 デュノアとジャンヌの距離感は、デュノア役の伊礼さんがトークショーで語って曰く「ジャンヌ寄り8:2ぐらい(のつもり)で稽古に入ったけど、現在は51:49ぐらい」という言葉通り。
 ジャンヌにさえ警戒感を抱いている様は「私生児」という生まれの故もあるのかなと。

 ジャンヌを見定めようとしながらも、「自分より老練で賢明な連中も同意見」と言った自らの発言に対して、「ならその人達は『のろま』なんだわ」と断言したジャンヌの発言が、デュノアの凍った心を溶かしたように見えて。

 デュノアにとって恐らく「目の上のたんこぶ」なのであろう連中に対して、ここまではっきり物が言えるジャンヌに対して、今の自分にないものを見たのかと(ここ、「ほぉ」という表情をしている)。

 このシーンでは、風が変わりイギリス軍陣営へ総攻撃をかける時、急に怖くなりデュノアに倒れかかるジャンヌ、という印象的なパートがありますが、ここでデュノアがジャンヌにかけた言葉「涙なんて『どうでもいい』」という言葉が耳に強く残ります。

 「どうでもいい」と言うときは、たいがい、
 とても「どうでもよくない」から。

 ”デュノアが認めたジャンヌ”に「涙」は似合わなかったのだろうなと。
 せっかく同志として認めた、自分の「壁」を、また崩されないようにと、無意識に敷いた境界線だったように見えたのでした。

●第4場/1429年、イギリス軍陣営のテント
 イギリス軍陣営のテントにて、イギリスのウォリック伯爵が、(当世的にはフランスの)コーション司教に宗教裁判を依頼するシーン。

 ここで同伴者として登場するストガンバーが、何というか、本当に神様に仕えし神父なのか?と毎度不思議になるわけですが、それこそ魔女と異端者の区別は付かないわ、キリストの名の元に「国家」の概念を声高に言い立てるわ、その立ち位置たるや不思議なばかり。

 ただそれであっても、というかそれであるが故に、ある面において興味深い示唆をしていて、「あの乙女(ジャンヌのこと)は嘘の固まりだ。信心深そうな様子を作る」という指摘はある意味において当たっていて。ジャンヌのことを好意的に捉えるか、悪意的に捉えるかの違いでしかないかと。

 この第4場は、「呉越同舟」の最たるもので、ウォリック伯爵は「ただで何かを欲しがるのはいつも決まってキリスト教徒だ」とまで言っていて、少なくともその言葉は司教にとって許せる言葉ではないでしょうし。司教にしたところで「イギリス人は異端者だ」と言っています。

 お互いがお互いを軽蔑し合い、お互いがお互いを利用し合った末にあるものが、果たしてどんな立派なものになるのか・・・第4場のどうしようもない終結が、宗教裁判をいかなるものにするか暗示しているような気がしました。

●第5場/1429年7月17日、ランス大聖堂
 シャルルが戴冠式を挙げ、ジャンヌが孤立していく様を見せる第5場。

 ジャンヌの登場シーンは、第4場を除く全場に亘りますが、分けるとするなら「1~3場」「5場」「6場」「エピローグ」の4つに分かれるのではと思います。3場までと5場で何が違うと感じたかと言えば、ジャンヌの言葉で「私は大人になった」という台詞があります。

 この言葉に表現されているように、「1~3場」にはジャンヌの「意志」というものは見られないように思うのです。そこにあるのは「神の意志」だけ。そしてジャンヌは自らに向けられる敵意も侮蔑も、すべて「何も存在しないかのように、まったく感じていないかのように」そこに立っている。

 それに比べると第5場でジャンヌは「(民衆の)あの人たちの眼に溢れる愛情が、あなたがたの眼にこもる憎しみを忘れさせてくれる」と言っていることが強く印象に残って。

 ジャンヌは自らの行いに対して「他者からどう見られるか」ということに、”全く無頓着”だったというのが自分のジャンヌ観なのですが、第5場だけはそうではなくて。

 第3場で出てきた「どうでもいい」という言葉は、この第5場でも2回登場します。

 一つは「ジャンヌがわれわれをどう思っているか」というデュノアの言葉に対する「どうでもいい」というジャンヌの答え。
 そしてもう一つは大司教からの「傲慢」の指摘に対する「傲慢かどうかはどうでもいい」という、これもジャンヌの答え。

 ジャンヌは王宮にいる誰よりもフランスのことを思っただろうけれども、王宮にいる他の誰であっても、フランスに対して「何もしなくていい」と思っていたわけではない。
 「いつもこの娘が正しくて我々が間違っているというわけだ」というシャルルの指摘が、大司教が言う「傲慢」ともリンクします。

 「私の言葉は本当のことでしょう?」というジャンヌの叫びは、ライールが認めるまでもなく本当のことだけれども、では他の人が全部間違っているかというとそうではない、ということに気づけなかったのがジャンヌの限界だったのだろうなと。

 ただ、そのジャンヌへの周囲の視点が、ジャンヌが5場で言う「妬み」だけによるものではなく、それぞれの人の立場上の限界によるものだということを、ジャンヌも理解していわば「和解」するシーンがあることが、この作品の何よりの救いに思えます。

 敵であるイギリス側の人間を除けば、「ジャンヌを利用するだけ利用して捨てた」というジャンヌ観には、今まで違和感を感じていたので、それが何より好きなところなのです。

●第6場/1431年5月30日、ルーアン城内
 ここでは、宗教裁判前の行き違いが印象深いです。ウォリック伯爵が言った「教会の祝福を受けずに行動せねばならぬとは」と言う言葉は、ウォリック伯爵が宗教裁判の意味を宗教的には一切理解していなかったことを示すものでしょうし。

 教会としては「正しい手続きの元にジャンヌに異端破棄をさせる」ことが教会の権威を示す唯一の道、という立場であったわけでしょうから。

 第7場で、ウォリック伯爵がいみじくもジャンヌに語ったように、イギリスにとってのジャンヌの「死」は、「政治的必要ゆえのものであって、あなたへの怨み憎しみではない。しかし政治的必要はしばしば政治的失策に終わることがある。そしてこのたびのことはまったく『大しくじり』であった。」と。

 そして実はこのウォリック伯爵の言葉の「政治」を「宗教」に読み替えると、宗教裁判の評価をこれほどまでに表現している言葉はないわけで・・・

 宗教裁判の存在は「宗教的必要ゆえのものであって、あなたへの怨み憎しみではない。しかし宗教的必要はしばしば宗教的失策に終わることがある。そしてこのたびのことはまったく『大しくじり』であった。」と・・・

 先ほど4場で「呉越同舟」と書きましたが、実は本質的には何も違わない両者であったと・・・。

 それにしても、日曜日公演のジャンヌのこの6場での疲弊ぶりは壮絶だったなぁ。

 異端破棄告白書を破り捨てた後の、今まで見たことのない光景。矢折れ刀折れ崩れ落ちながらも、それでも毅然と「火を付ければいいわ!」と立ち上がるジャンヌの姿は、それはそれは神々しく・・・

 それこそ浅野さんが言ってた「玲奈ちゃんは毎日演技が違う」の典型な場面でした。
演じている方は無意識なんだろうな。

●エピローグ/1456年6月、シャルル七世の離宮
 エピローグで最初に登場するシャルルと、そしてマルタン。この2人の会話の中で興味深い会話があって。

 シャルルが「我々は自分の仕事さえしていればいいのだ」と言ったのに対し、マルタンが「神がお許しになりません」と答えているんですね。
 これを聞いた時、ジャンヌの宗教的側面を継いだのはマルタンなんだなと思って。

 ジャンヌという人物は、主に3つの側面を持っていたと思うんです。
 宗教的側面、政治的側面、軍事的側面。

 そして、宗教的側面はマルタン、政治的側面はシャルル、軍事的側面はデュノアが継いでいると考えるとなんかすっきりします。その上で「身体は炎をくぐり、魂は天に召され、あの人たちの心の中にいつまでもとどまることになる」というジャンヌの”予言”が正しく実現したと思うと、なんだかほっとした気持ちになるのでした。

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