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『ジャンヌ』(10)

2013.10.9(Wed.) 19:00~22:15
札幌市教育文化会館大ホール 1階え列10番台

「ジャンヌ」拙稿もとうとう10回目。
札幌での大千穐楽、終わってしまいました。

公演回数22回中、東京8回、兵庫(西宮)2回、札幌1回の11回。つまりちょうど半数を観劇。
公演場所としては愛知(豊橋)のみ仕事上の都合でスキップでしたが、充実した1ヶ月でした。

自分はミュージカルとストレートプレイはそれぞれに良さがあって、それぞれに素敵なところがあると思う方なので、ミュージカルをメインに出演されている今回の主演・笹本玲奈さんがストレートプレイに徹したことも、予想外でも何でもなく、そして幸いにもテーマが興味深いジャンヌ・ダルク、その上ご本人念願の役ということで、最後まで見送れたことは、何より嬉しかったです。

彼女自身が今回、今までの作品とは比べ物にならないぐらいインタビューに出て(それは営業上の理由ですが)、自身の言葉で役と作品について熱心に語ってくれたことは、見る側からしてもとても興味深かったし、その中でも「ミュージカルでは知らず知らずのうちに、歌に頼っていたんだと思う」と言ってくれたことは、なんだかとても印象深かったです。

実際のところ、ミュージカルでそこまで歌に頼っているという印象がない彼女ですが、だからこそというか、今回のストレートを演じきったことでミュージカルによりいい風が吹き込むような、そんな感じを持ちます。

ほかの作品やほかの役と比べるつもりではないですが、というか比べなくともこの作品におけるジャンヌが、絶対的な存在感で、圧倒的な居住まいでいなければならないのは間違いなく。ゆえにジャンヌが「神の声しか聞かない」という名のもとに、「上から目線で」周囲を説き伏せる、という側面がどうしても必要で。

この日、西宮公演と明確に違ったのは、ジャンヌの説得力が強制でないように感じたということ。

叫ぶように、怒鳴るように、力でねじ伏せると思われかねないような点は、まったくと言っていいほど姿を消して、とにかく静かな説得。
何しろ、シャルルに対して常に強要するかのごとく叩きつけていた「シャーリー」の言葉が、静かで、あたかもシャルルが自分の説得を受け入れることを、一欠けらも疑っていないかのような慈母のごときソフトな問いかけで。

「シャルルはジャンヌの勢いに押されて決断をした」と思えかねないような前までのたたずまいに比べると、明確に「シャルルはジャンヌの説得自体を認めて決断をした」と受け取れるこの感が、とても好きでした。

ただそれは、世田谷・西宮・豊橋と、場を踏んできてジャンヌがどう立っていれば説得できるかを、わかったからこその産物ではあるのだとは思います。札幌には演出家の鵜山先生も来られていたので、今までの公演を前提に、恐らくは本来のあるべき姿に戻ろうとしたのではないかと感じました。

「ジャンヌ」の物語の前半は、ジャンヌからすると、いろいろな人を説得するパートな訳ですが、以前も書きましたが、ジャンヌは説得する相手の言葉は聞いていても、自分の言いたいことは初めから決まっているように感じる・・・と。ジャンヌは、神の御声のもとに、言うことを考えているだけ。1場の領主様を説得することは、ジャンヌにとって赤子の手をひねるようなものだったと思える・・・のは公演最初のころからそうだったけど・・・

大楽で感じたのは、ジャンヌはシャルルさえ手の内にいれたのだと、そう感じずにはいられませんでした。
シャルルの答えも、ジャンヌにとっては「想定回答の中に収まるもの」でしかなかったのではと。
だからこそ、ジャンヌは2場までまったく揺るぎもしていない。
自分の信じるもの(神)から与えられたものを、ただ信じているだけでよかった。

「ジャンヌ」の登場人物の中で、唯一「ジャンヌが心を許している相手」として紹介されることが多かったデュノア。
ただ実は、デュノアの立ち位置が自分の中ではっきり認識できたのは、この大楽で、でした。

登場する相手が、すべて神の想定の中の行動しかせず、ジャンヌが余裕を払っていられたのに対し、3場のデュノアは明らかにその「壁」を越えてきていた。
ジャンヌが「涙で目が見えない」理由がずっと分からなかったのですが、「神が与えし壁、それを越えてきたデュノアの存在が、ジャンヌにとっては想定外だった」からこその、「初めての『心の揺れ』」ではないのかと。

だからこそ、ジャンヌにとってデュノアは特別な存在だったと。

5場、神の声を信じないと言ったかのようなデュノアに対してジャンヌは怒りを露にしますが、その怒りに対して「あなた『だけ』に対してではないわ」ではなく、「あなたに対してではないわ」という言葉を出したことに、ジャンヌのデュノアへの感情を感じずにはいられません。

自分にとって大切な存在のデュノアでさえ神の声を聞いたことを信じてはくれない、他の皆と同じ見方をしている。
でも「あなた『だけ』に対して」と言ってしまえば、デュノアも責めることになってしまう

その感情は「そんなあなたを咎めたりしないわ、ジャック」と言っていることにも現れているかと。

話を元に戻すと、領主もシャルルも、ジャンヌにとっては「攻め方の分かった相手」でしかなかった。
実のところ、ジャンヌが本当の気持ちを認識できなかったのは、実はデュノアだったのではないかと。

大楽の日、シャルルを強圧的に従わせようとしなかったのに、実はデュノアに対しては「私生児隊長!」と強く強く勢いを叩きつけていたんです。

それを見たとき、「ジャンヌにとってのラスボスは、実はデュノアだったのかもしれない」と感じてしまって。

そう感じられたときに、「デュノアがジャンヌにとって特別な存在だった」ことの意味がようやくしっくりした気がしたのでした。
「(あなたが子供なら)あなたをお守りしてあげられるのに」というジャンヌの言葉は、自分の手の内に入らないデュノアへの、無意識下での焦りだったようにも感じました。

・・・・・

●陪席審問官の役割

6場の宗教裁判にて登場する3人の陪席審問官。
ストガンバー、クールセル、マルタン。
この3人はいずれもイギリス・ウォリック伯爵の息がかかっていたことが後で分かりますが(マルタンでさえ後にウォリックと旧知であるかのような会話をしている)、この3人の役割分担について。

査問官が諭して曰く、
「怒りは捨てられよ」とクールセルに諭し、
「哀れみは捨てられよ」とストガンバーに諭し、
「慈悲は捨ててはなりません」とマルタンに向けて諭していて。

怒りと哀れみの嵐の中で、慈悲こそがジャンヌに対して与えられるべきものである-それが宗教裁判の意義であったと。だから慈悲として最後を見届けるのはマルタンなのだと。

そして・・・その慈悲に対して背中を向けた以上、ジャンヌは破門に値する。

だがジャンヌにとっては自分の肉体が焼かれることは一瞬の苦しみでしかなく、精神(魂)が昇華することこそ、「あなたがたとは違い、神様が考えていらっしゃること」であると。

だからこそ「地上教会はジャンヌを火刑台に送ったが、天上教会はジャンヌを聖女に列した」のだと。

5場でデュノアはジャンヌに対して忠告した言葉である「自分のなすべきことを神に任せようとするのであれば、神はお前を罰するだろう」と言っていますが、5場と6場の中間において、コンピエーニュでジャンヌが捕らえられたのは、まさにその行為によるもの。

ただ、その側面からすると、宗教裁判も多分にその側面があるわけですよね。

後に天上教会はジャンヌを聖女に列したわけですから、宗教裁判は「地上教会とイギリスの面々が、神の名のもとにやろうとした暴走」

であるわけですね。

●二律背反の立場
この作品では「ジャンヌは神を利用している」という認識が、味方側のデュノアと、敵側のストガンバー双方から出てきているのが興味深いです。

デュノアはジャンヌに対しての単純な心配であるのに対し、ストガンバーは神の名の下にイギリスの利益を志向していたことへの自覚があったればこそ、ジャンヌの立ち振る舞いを「神の名の下にフランスの利益を志向している」と認識したのでしょうけれど。

そして、デュノアとストガンバーは「臆病」というキーワードでも対の関係になっています。

「犠牲のことはお構いなしに、自分のなすべきことを神に任せようとしている」とジャンヌに対して非難したデュノアを「臆病」と非難したジャンヌは、たしかに「傲慢」と指摘されるそしりを逃れなかったと思うし。

「『残酷』というものが実際にどういうものか教えてくれた」ジャンヌが火あぶりにされようとするとき、ストガンバーはジャンヌに十字架を差し出すことをしようとしなかったことは非難されてしかるべきと思うし。

その両者が、エピローグにおいて自らを振り返るとき、「兜を脱いだ」とジャンヌの考え方に対して完全に同意しているデュノアはジャンヌからの赦しの対象であったのは当然として、ストガンバーさえジャンヌの最期に対する自らの過ちを認め、それゆえにストガンバーでさえジャンヌからの赦しの対象であると。

「臆病」に落ちていたデュノアとストガンバーが
ジャンヌがいう「勇気」を身につけたことこそ、ジャンヌにとっての喜びではなかったかと。

何しろ大司教にいたっては「お前を祝福する勇気はない」とまだ言っていますし、エピローグは結局のところ、「ジャンヌたる『生きた聖女をこの世に迎える勇気』を、皆がまだ身につけるに達していない」ことを示しているのだと思うし。

ジャンヌが成し遂げた「個人の精神の反乱」が人間あるべき姿だと、バーナード・ショーは語ってそして評価していたのだろうと。

そうであっても、ジャンヌがそのことを責めるわけでなく、いつかその時が来ることを信じて、玲奈ジャンヌが前向きな表情で暗闇に消えていく姿は神々しく、素敵だったなぁと。

●ジャンヌとはどういう存在なのか
以前もちょっと書いた感想ですが、この「ジャンヌ」は、ジャンヌ・ダルクを扱った作品としては異質で、乱暴に言うなら「ジャンヌ・ダルクを描いた異端者」かなと思うのです。

ジャンヌ・ダルクは聖人でありフランスを救った救国の主であり、男勝りに戦闘に立ち回っていた、しかるに願いは叶わぬまま敵に捕らえられた悲劇のヒロインであると…

今回の「ジャンヌ」の原作であった戯曲は、ほかのジャンヌ・ダルクを描いた作品より、より強く「ジャンヌの存在意義」を表に出していて。それはバーナード・ショーの主観であった部分を否定はしないけれども、「なぜジャンヌ・ダルクはこれほどまでに愛され、これほどまでに崇め奉られるのだろう」というへの理由を、よりはっきりと出していたように感じて、その戯曲の個性が好きでした。

これまでジャンヌ・ダルクが悲劇のヒロインとしてだけをメインに語られることが多かったことは、結果としてジャンヌ・ダルクの存在を神格化して、「空想の存在であるかのように」見せているように思って。

「ジャンヌ・ダルクは確かに『生きていた』」ということは、翻訳の小田島先生、演出の鵜山先生、そしてジャンヌ役の笹本さんが一致して体現されていたことだと思うし、その点をはっきりさせたことに、この作品を上演した意味があったように思います。

そして「ジャンヌ」カンパニーとして1ヶ月間拝見させていただいた皆さま。一人欠けても存在しないこのカンパニーでこの「ジャンヌ」を見られたことを、神に感謝せずにはいられません。

●札幌、そしてカーテンコール
大千穐楽を地方で迎えることが多いのは今に始まったことではないのですが、作品として熟成されてきながらも、その地では1回ないし2回公演で、そして観客にとってはまさに「一期一会」の機会。

どっかんどっかんと笑いを取ったり、ぐしゅぐしゅに泣かせたり、派手な動きで驚かせたりといった要素からは、いずれも離れたこの作品において、客席の受け止め方はそれはそれは心配になるほどで。

でも、当然のことながら舞台上ではそんなことを気にせず「ありのままを認めて、鼻っ面はかなり低く」演じられている様は感嘆のほかなくて、だからこそエピローグのシニカルな部分で笑いが起こったのは、客席から見ても心からほっとしたものがあったのでした。

1列目と3列目がスタンディングになるという不思議な空気の中(笑)、玲奈ちゃんが立ち位置ずれて村井さんから突っ込まれて『こらっ』とゲンコツのふりされて、いたずらっぽく舌を出す様が大楽でも見られてよかったです。村井さんから促されましたが特に挨拶はなく、最後に「ありがとうございました」で幕。

「ジャンヌ」らしい幕の下り方で、なんだかほっとしたのでした。

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