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2013年10月

『Ordinary Days~なにげない日々~』(1)

2013.10.18(Fri.) 19:30~21:00
上野ストアハウス H列上手側

小劇場ミュージカルでは最近よく名前を聞くこの会場。今回、初めての観劇です。
前評判に釣られて今週2度目の新顔作品。

オフ・ブロードウェイ作品の日本初演です。

男女ペア2組、合わせて4人プラス、演奏お1人の合計5人の舞台。
4人構成ということで、ストーリー的にも今年春の『トゥモロー・モーニング』に似た印象を受けましたね。

年長ペアのクレアとジェイソンはダブルキャスト(ペアは固定)で、
この回は木村花代さんと松原剛志さん。
年下ペアのデイブとウォレンはトリプルキャスト(ペアは固定)で、
この回は小松春佳さんと田中秀哉さん。

この4人の中で(意識しているかどうかはともかく)、初見なのはデイブ役の小松さんだけなのですが、正直この方が一番光っていたかなと。経歴見たらミュージカルアカデミーの卒業公演でエポニーヌ役やってて、自分のストライクゾーンに嵌る理由が分かったりしました(笑)。ちなみに小松さんは来年の帝劇『レディ・ベス』でアンサンブルで出演されることが決まっています。

上の説明で意図的に「カップル」と書いていないのは、2ペアとも、カップルとしては微妙な位置づけにあるから。
クレアとジェイソンは結婚を意識する間柄だけど、後一歩が踏み出せない(主にクレアの考えによる)。
デイブとウォレンはふとした瞬間に腐れ縁になるような「カップル未満」。

それでいて、クレアとジェイソンの距離はそうそう近づかないのに(むしろどんどん離れていくのに)、デイブとウォレンの(気持ちの)距離はどんどん近くなっていって、キーキー言ってたデイブがウォレンの存在に知らず知らずのうちに癒されていく様がとっても微笑ましい。
デイブは卒業を前に卒論に苦しむ女性ですが、ウォレンとの関係で自分の進む方向を修正していく。

印象的だったのは「夢は具体的であるほど叶わない」というウォレンの言葉。
これほど深い言葉ってない気がする。

まぁ反面、「現実は抽象的であるほど解決しません」けどね・・・(普段の日常からの感想)

さっきも書きましたがデイブのポップさがとても心地好くて。
ひたすら悩みまくっているもんだからなんだか周囲にネガティブを纏ってしまっているかのようなクレアの花代さんと比べて、とっても前向きで楽しませてもらえます。

クレアは多分生真面目で、色々損してきたんだろうなぁと思うに余りあって、演出の藤倉さんが花代さんに「クレアは花代さんにぴったりの役」とおっしゃったそうなのですが(パンフでの花代さん談)・・・自分の花代さん経験は短いので直感でしかないけれど(お芝居では「ミス・サイゴン」「ひめゆり」に続き、今回が3作目)、似ているとすればその辺りなのかなと。

特別な日々ではなく、「なにげない日々」を描いたこの作品。
日常を嘆いてばかりでなくて、日々のなにげないことにもそっと寄り添えれば、日々はもっと豊かになることに、デイブとウォレンはお互いの関係から先に気づいて。

交わることのない2組の関係が、とある出来事から交差して、デイブとウォレンの前向きさが、クレアとジェイソンの関係を近づけて、クレアが頑なだった理由もひっくるめてジェイソンはクレアを受け入れてくれて・・・というラストの流れが一気にぐっと盛り上がって、とても良かった。

この作品では演奏は1人のピアニストさんが90分ほぼほぼ弾きっぱなし。村井一帆さんという男性の方でしたが、この作品の空気を決定づけるソフトでポップでまろやかな演奏が、クレアを筆頭に頑なな思いを溶かしていくようで。

派手さはなくとも柔らかな空気が流れる作品の空気がとても素敵でした。

公演期間が1週間未満ということで、他キャスト(特にクレア役のもう1方、吉沢梨絵さん(ルドルフ(再演)のステファニー役)と、デイブの平田愛咲さん)も見てみたかったです。全く違う空気が醸し出されそうな、そんな気にさせられました。

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『それからのブンとフン』(2)

2013.10.13(Sun.) 13:00~16:10
天王洲銀河劇場 3階A列10番台後半(センターブロック)

1回のみの観劇予定だったこの作品。
テンポも良かったし、トークショーも予定されているし、何よりリピーターチケットでCDもらえるし、という3点セットで観劇を追加。

1階・2階はそれなりに埋まっているとのことで3階を見てもらうと最前列。
世田谷同様、目の前の柵が目障りな席ではありますが、中途半端に後方列よりずっと良いです。

前日まで北海道に行っていて、今日はこの作品のマチネと、そして突如追加した『しあわせの詩』ソワレという、マチソワ。
劇場でお会いした知人に半ば呆れられつつ(笑)、自分も何でこんなことになっているのかさっぱり自覚症状がありません。


ネタバレあります


この作品で興味深いのは、フンを取り巻く両サイド、オリジナルブン(小池栄子さん)と悪魔様(新妻聖子さん)の関係です。

この2者、立場の違いはあっても「権威」を引きはがすという点に関しては同じなんですよね。
アプローチが違うだけで。

ブンは「権威」を引きはがすことで、人間を平等な立場に置こうとしている。
悪魔は「魂」を引きはがすことで、人間社会を混沌に叩き込み、この世を悪魔の意のままにしようとしている。

ブンが語った中に興味深い言葉があって、「法はそれだけではただの文章に過ぎない」という。

権力が統制できなくなった状態のことを「無法状態」と称しますが、「法」とは権力の強制力を持って初めて実効性を持つものなんですよね。(ちなみに「貨幣」も同じで、中央銀行が価値を保証するから、ただの紙切れやただの金属が、価値として有効になるという。)

「法を権力が持てば無敵である」とブンは言っていますが、それも妙な話で、権力が持つからこそ法なのであって、もちろんその濫用は厳しく戒められ、監視されるべきものであるけれど、それが「権威」を引きはがすことの理由付けにはならないように思う。

この作品では、「権威」を引きはがしたブンの引き起こした混乱が「人間社会における隙」であり、そこに悪魔の入り込む余地を与えたように描かれていて、「権力」の源泉である警察に悪魔が取り憑くという事態は、まさに「軒を貸して母屋を取られる」状態にありますが、権力を持つ者にとっては「実質的に支配できていれば、そんなことはどうでもよい」ということなんですよね。

それにしたところで悪魔様がアバンギャルド(ちなみに姫が自称しています)になってしまって、高飛車と可愛さの中間というのが、どうにも居心地が微妙です(笑)。好みはどっちか寄りなんですけど(爆)。

『「魂」を奪われる』、ということは表面的に分かりにくい部分があるけれども、「精神」と言い換えると何か分かる気がします。人間が人間であるための幹を奪われれば、その人間は本当の意味で「生きている」ことではなくなってしまうと。

「ジャンヌ」の宗教裁判で自らの信を捨てまいと必死になっていたシーンがあるけれど、信を捨ててしまえば、幹を失ったと同じで、世俗の権力者にとっても、宗教上の権力者にとっても、もはや危険分子としての存在ではなくなる。

ジャンヌが自らの生き様をもって他者に影響力を与える-司教曰くの「女が皆自らをジャンヌと思い、神と自らの間に一切の介在も許さない『個人の精神の反抗』が起こるうちには、我々の存在は脅かされる-と同じことで。

悪魔にとっては「『精神を持つ』人間」こそが邪魔なわけですね。

・・・

この日のトークショーは、こまつ座代表の井上麻矢さん(以下Q)が司会、そして市村正親さん(以下I)、新妻聖子さん(以下H)の3人で進行。

Q.(この作品にちなんで)人生にとって大事なものは?
H.食欲です(会場内笑)
I.いっつも食べてるもんね。みんな一緒に食事行っても、
  喋るのそっちのけで食べてる(笑)
H.終演後トークショー前(ちなみに5分弱)の時間にも
  リンゴ食べてました(笑)
  やっぱり人間、お腹空かせてるとろくなこと考えないんですよ。
  一曲一食です(笑)

I.僕は何だろう・・・愛すること、かな。
Q.素敵ですね。
H.食欲も広い意味では愛することと言いますか、作ってくださった方
  への感謝の気持ちとか、
  いつも感じて、いただいています。

Q.自分の役への役作りとか、無茶振りとかありましたか。
I.最初のシーンで客席をいじるじゃないですか。
  あれは毎回変えてて、客席の怖い人避けたりとか(笑)
  台詞がもともと喧嘩腰だから、「お金払って観に来てるのに、
  『なんだ』みたいに言われるのか」
  って怒られないようにソフトに言ってみたり(笑)、
  前方に女性が多いと絡み方変えてみたり。

H.基本、悪魔役については演出家の栗山さんは放任でしたね。
  「僕も悪魔って見たことないんだけどさ、
  なんか悪魔っぽい面白いことしてみて」(笑)って
  言われてどうしようかと思いました。

  このアバンギャルドな外見になったのも
  舞台稽古からなんですよ。

  でも「悪魔ボサノバ」で寝転がりながら客席を睨む、ってところ
  だけは栗山さんの頭の中にはっきりイメージがあったようで、
  そこから役作りを逆算して作りました。

Q.市村さんは1役ですけど、
  新妻さんは沢山役をされていますよね。
H.そうですね。セーラー服・・・
Q.最初セーラー服ですよね。
H.そうなんです。「野坂昭如好みのセーラー服」って台詞が・・・

  ※ちなみに先日のトークショーの時の話
  H.私、野坂昭如さんって存じ上げなかったんですよ。
    なのでwikipediaで調べて(笑)、
  「あぁ、大島渚さんと殴り合った方なんですね」(大笑)

Q.次はスクールメイツ・・・
H.いやもう楽しくて楽しくて。客席からの冷たい視線はともかく(笑)
  演出家さんもここはどう演出しようかという話で、
  「可愛い風にやってみて欲しいけど・・・
  (と色んなアイドルの名前が出たりはしたもののの)」

  ※ちなみに先日のトークショーの時の話
  H.「いや、可愛い娘を演出する引き出しは
     無駄にいっぱい持っていますから(笑)」

  だったそうです(大笑)

H.それから悪魔役になって、
  その後傍聴人とウェイトレスになってます。

  ※ちなみにリピーターチケット特典のCDに入っている
  「盗みましょうよ」には
  「全キャストの歌声が入っている」と称されていますが、
  聖子さんはウェイトレスで歌っています。

Q.あの悪魔役の羽根って重くないんですか?
H.軽いです。結構ふわふわしてて、
  実は毛布の替わりになります(笑)
  あるシーンでは実際羽根を背にして寝ますし。

Q.東京はあと少しですが、これからの意気込みを。
I.今回は東京と大阪だけですが、ぜひ同じメンバーで他の地方でもこの作品をやりたいです。
  応援よろしくお願いします。

H.今回こまつ座初参加なのですが(僕もだよ!と市村さんから
  ツッコミが入り、「そうですよね!」と新妻さん反応)、
  日本語がとっても美しくて。
  私、学生時代ずっと海外にいたので、改めて日本語の勉強を
  させていただいている感じで、とってもいい経験をさせて
  いただいています。
  ありがとうございます。

・・・というとっても綺麗にまとまって幕。

そういえば、入場時は市村さんと新妻さんが腕組んで入ってきてましたが、市村さんが照れてて、新妻さんがノリノリで、なんだか父娘みたいな(笑)図でした。

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『しあわせの詩』

2013.10.13(Sun.) 18:00~20:10
赤坂REDシアター F列10番台(上手側)

One on One(オリジナルミュージカル製作集団)公演、今回は再再演にあたるそうです。

天王洲銀河劇場の『それぞれのブンとフン』観劇(トークショー付)を見た後、一路、赤坂見附へ。
フォロワーさんの評判がとても良かったので、飛び込みで当日券を入手してみることに。

今日がもう楽なので、楽の当日券は無理だと思ってこの日に賭けましたが、見て良かったです。

オリジナルミュージカルだそうですが、音楽の空気が何となく『この森で、天使はバスを降りた』に近いものがある気がします。どこか懐かしく、どこか優しく、そしてどこか過去に影がある感じが。

ネタバレですのでご注意くださいませ



主役の健が、取材で旅行に行くことになった先が、実は健の生まれた土地。婚約者の悦子はそれを聞いて、連れて行って欲しいと食い下がる。悦子は、健が時々分からなくなることがあった。むしろ「怖い」「冷たい」と思うことがあった。健の生まれた土地を見れば何かが分かるかもしれない・・・

といったプロローグから佐賀県のとある田舎街に降り立った2人。そこには、狐たちがいた。健の記憶からは消えていたが、健の母親である詩織と狐・桔平との間には、過去のとある出来事があった。

導入部では、人間と狐が対話を始めることで、立場の近いがはっきり出てくる事柄があります。

人間にとっては「歳をとることを皆で祝う。長く生きることは、それだけ大変だし祝うべきことだから」

狐にとっては「歳なんかわからない。むしろ死ぬことが許されない。『本当の願い』を叶えられたとき、叶えようとしたとき、はじめて死ぬことが許される」と。

この狐の「死ぬことを許される」点がこの物語で重要な位置を占めています。

健には「傷がすぐ治る」という特技があり、健はそのことをずっと不思議に思ってきた。
それは、実は詩織と桔平との間の過去と繋がっていて、桔平が詩織の命を救ったことと関係していて。
狐にとってそれは禁忌であり、罪であったこともあって、桔平は死ぬことを許されずにいた。

・・・詩織が桔平に助けられたとき、詩織の中に狐の要素が入り込んだ、だからこそ詩織の息子である健には、特殊能力としての「傷がすぐ治る」という要素があった・・・のだろうと思うのですが、むしろ詩織は「人間として死んで、狐として生まれ変わった」というようにも取れて印象的。

詩織は健に対するとあることを「本当の願い」として願って、それが「本当の願い」だったからこそ死ぬことが許された・・・その時の詩織は人間でなく、狐となっていたのではないかと。

詩織は驚くぐらい狐たちの中にすっと入り込んでいたであろうことを感じさせられますが、健の婚約者である悦子も、同じく驚くほどの順応力で狐たちの中に入っていき、最初は警戒していた女狐でさえ、なんだか自分のムードに巻き込んでしまう。

この、詩織と悦子の過去・未来の関係図がとても良かったな。健にとって、「今の自分を作ってくれた基」である詩織と、「これからの自分を一緒に作ってくれる」悦子との対比。冷たくしたり、本当に怖がらせたり、それでも付いてきてくれることをやめようとはしない悦子の強さは、詩織の娘ではないのだろうかと不思議になるぐらい、似ている気がして。

仕事でつまづき、自分のしたいことができずにもがく健と、それを支えようとする悦子。
過去を気に病む桔平を、自分の生きてきた道に悔いはないと励ます詩織。
詩織が願った「本当の願い」が、桔平の「本当の願い」としても認められたとき、本当の意味で桔平と詩織は通じ合えたのかと思うと、涙せずにはいられませんでした。

「心残りが無くなれば死ねる」という狐は、心残りがある限り生きていられる。
でも”生きていられる”という見方はあくまで人間側の見方であって、”死ぬに死ねない”というのが狐側の言い分になる。

かといって「心残り無く死ぬ」というのが人間にとって、きっと永遠のテーマなのではないかと思うし、その対比がとても興味深かったです。

「どう死ぬか」がテーマな狐と、「どう生きるか」がテーマの人間が、どうお互いを理解するか。
本来は交われない狐と人間が、詩織、健、悦子という3人の人間の「強さ」と「弱さ」を軸に展開していく風景。
苦しみを乗り越えた先にある「本当の願い」がどれだけ崇高で、それは他人が是非を判断できる問題を超越していて。

生きることに前向きになるためのエネルギーをもらえる作品。ストーリーと音楽がぴったりくっついていて、役者と劇中の登場人物・狐とがぴったりくっついていて、何だか本当の出来事を見ているような気がしました。

タイトル曲でもある「しあわせの詩」も素敵だったけど、自分は相手の苦しみを理解できることはないのだろうかと歌われる歌(「巡る想い」)の悦子の心からの叫び、詩織が歌う「本当の願い」も・・・どれも素敵。

「しあわせ」はきっとその人がそう思えることでしか生まれないものだろうし、1人の「しあわせ」は1人だけの「しあわせ」ではないんだろうなと思えて、心が温かくなったのでした。

俳優さん、女優さん皆さん素晴らしかったです。とりわけ、悦子役を演じられた岡村さやかさん。まっすぐな歌声は、悦子という人物にしっかりとした根を下ろしていたからこそかと。詩織役を演じられた千田阿紗子さん。初見でしたが、演者さんいわくの「スーパーキーパーソン」の名の通りの存在感で、強さも持ちながら、ふわっとした存在が心地よく、素敵でした。

普段はキャスト重視で作品を選ぶ自分ですが、作品の評判からのこんな出会いもいいなと思ったのでした。

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『ジャンヌ』(10)

2013.10.9(Wed.) 19:00~22:15
札幌市教育文化会館大ホール 1階え列10番台

「ジャンヌ」拙稿もとうとう10回目。
札幌での大千穐楽、終わってしまいました。

公演回数22回中、東京8回、兵庫(西宮)2回、札幌1回の11回。つまりちょうど半数を観劇。
公演場所としては愛知(豊橋)のみ仕事上の都合でスキップでしたが、充実した1ヶ月でした。

自分はミュージカルとストレートプレイはそれぞれに良さがあって、それぞれに素敵なところがあると思う方なので、ミュージカルをメインに出演されている今回の主演・笹本玲奈さんがストレートプレイに徹したことも、予想外でも何でもなく、そして幸いにもテーマが興味深いジャンヌ・ダルク、その上ご本人念願の役ということで、最後まで見送れたことは、何より嬉しかったです。

彼女自身が今回、今までの作品とは比べ物にならないぐらいインタビューに出て(それは営業上の理由ですが)、自身の言葉で役と作品について熱心に語ってくれたことは、見る側からしてもとても興味深かったし、その中でも「ミュージカルでは知らず知らずのうちに、歌に頼っていたんだと思う」と言ってくれたことは、なんだかとても印象深かったです。

実際のところ、ミュージカルでそこまで歌に頼っているという印象がない彼女ですが、だからこそというか、今回のストレートを演じきったことでミュージカルによりいい風が吹き込むような、そんな感じを持ちます。

ほかの作品やほかの役と比べるつもりではないですが、というか比べなくともこの作品におけるジャンヌが、絶対的な存在感で、圧倒的な居住まいでいなければならないのは間違いなく。ゆえにジャンヌが「神の声しか聞かない」という名のもとに、「上から目線で」周囲を説き伏せる、という側面がどうしても必要で。

この日、西宮公演と明確に違ったのは、ジャンヌの説得力が強制でないように感じたということ。

叫ぶように、怒鳴るように、力でねじ伏せると思われかねないような点は、まったくと言っていいほど姿を消して、とにかく静かな説得。
何しろ、シャルルに対して常に強要するかのごとく叩きつけていた「シャーリー」の言葉が、静かで、あたかもシャルルが自分の説得を受け入れることを、一欠けらも疑っていないかのような慈母のごときソフトな問いかけで。

「シャルルはジャンヌの勢いに押されて決断をした」と思えかねないような前までのたたずまいに比べると、明確に「シャルルはジャンヌの説得自体を認めて決断をした」と受け取れるこの感が、とても好きでした。

ただそれは、世田谷・西宮・豊橋と、場を踏んできてジャンヌがどう立っていれば説得できるかを、わかったからこその産物ではあるのだとは思います。札幌には演出家の鵜山先生も来られていたので、今までの公演を前提に、恐らくは本来のあるべき姿に戻ろうとしたのではないかと感じました。

「ジャンヌ」の物語の前半は、ジャンヌからすると、いろいろな人を説得するパートな訳ですが、以前も書きましたが、ジャンヌは説得する相手の言葉は聞いていても、自分の言いたいことは初めから決まっているように感じる・・・と。ジャンヌは、神の御声のもとに、言うことを考えているだけ。1場の領主様を説得することは、ジャンヌにとって赤子の手をひねるようなものだったと思える・・・のは公演最初のころからそうだったけど・・・

大楽で感じたのは、ジャンヌはシャルルさえ手の内にいれたのだと、そう感じずにはいられませんでした。
シャルルの答えも、ジャンヌにとっては「想定回答の中に収まるもの」でしかなかったのではと。
だからこそ、ジャンヌは2場までまったく揺るぎもしていない。
自分の信じるもの(神)から与えられたものを、ただ信じているだけでよかった。

「ジャンヌ」の登場人物の中で、唯一「ジャンヌが心を許している相手」として紹介されることが多かったデュノア。
ただ実は、デュノアの立ち位置が自分の中ではっきり認識できたのは、この大楽で、でした。

登場する相手が、すべて神の想定の中の行動しかせず、ジャンヌが余裕を払っていられたのに対し、3場のデュノアは明らかにその「壁」を越えてきていた。
ジャンヌが「涙で目が見えない」理由がずっと分からなかったのですが、「神が与えし壁、それを越えてきたデュノアの存在が、ジャンヌにとっては想定外だった」からこその、「初めての『心の揺れ』」ではないのかと。

だからこそ、ジャンヌにとってデュノアは特別な存在だったと。

5場、神の声を信じないと言ったかのようなデュノアに対してジャンヌは怒りを露にしますが、その怒りに対して「あなた『だけ』に対してではないわ」ではなく、「あなたに対してではないわ」という言葉を出したことに、ジャンヌのデュノアへの感情を感じずにはいられません。

自分にとって大切な存在のデュノアでさえ神の声を聞いたことを信じてはくれない、他の皆と同じ見方をしている。
でも「あなた『だけ』に対して」と言ってしまえば、デュノアも責めることになってしまう

その感情は「そんなあなたを咎めたりしないわ、ジャック」と言っていることにも現れているかと。

話を元に戻すと、領主もシャルルも、ジャンヌにとっては「攻め方の分かった相手」でしかなかった。
実のところ、ジャンヌが本当の気持ちを認識できなかったのは、実はデュノアだったのではないかと。

大楽の日、シャルルを強圧的に従わせようとしなかったのに、実はデュノアに対しては「私生児隊長!」と強く強く勢いを叩きつけていたんです。

それを見たとき、「ジャンヌにとってのラスボスは、実はデュノアだったのかもしれない」と感じてしまって。

そう感じられたときに、「デュノアがジャンヌにとって特別な存在だった」ことの意味がようやくしっくりした気がしたのでした。
「(あなたが子供なら)あなたをお守りしてあげられるのに」というジャンヌの言葉は、自分の手の内に入らないデュノアへの、無意識下での焦りだったようにも感じました。

・・・・・

●陪席審問官の役割

6場の宗教裁判にて登場する3人の陪席審問官。
ストガンバー、クールセル、マルタン。
この3人はいずれもイギリス・ウォリック伯爵の息がかかっていたことが後で分かりますが(マルタンでさえ後にウォリックと旧知であるかのような会話をしている)、この3人の役割分担について。

査問官が諭して曰く、
「怒りは捨てられよ」とクールセルに諭し、
「哀れみは捨てられよ」とストガンバーに諭し、
「慈悲は捨ててはなりません」とマルタンに向けて諭していて。

怒りと哀れみの嵐の中で、慈悲こそがジャンヌに対して与えられるべきものである-それが宗教裁判の意義であったと。だから慈悲として最後を見届けるのはマルタンなのだと。

そして・・・その慈悲に対して背中を向けた以上、ジャンヌは破門に値する。

だがジャンヌにとっては自分の肉体が焼かれることは一瞬の苦しみでしかなく、精神(魂)が昇華することこそ、「あなたがたとは違い、神様が考えていらっしゃること」であると。

だからこそ「地上教会はジャンヌを火刑台に送ったが、天上教会はジャンヌを聖女に列した」のだと。

5場でデュノアはジャンヌに対して忠告した言葉である「自分のなすべきことを神に任せようとするのであれば、神はお前を罰するだろう」と言っていますが、5場と6場の中間において、コンピエーニュでジャンヌが捕らえられたのは、まさにその行為によるもの。

ただ、その側面からすると、宗教裁判も多分にその側面があるわけですよね。

後に天上教会はジャンヌを聖女に列したわけですから、宗教裁判は「地上教会とイギリスの面々が、神の名のもとにやろうとした暴走」

であるわけですね。

●二律背反の立場
この作品では「ジャンヌは神を利用している」という認識が、味方側のデュノアと、敵側のストガンバー双方から出てきているのが興味深いです。

デュノアはジャンヌに対しての単純な心配であるのに対し、ストガンバーは神の名の下にイギリスの利益を志向していたことへの自覚があったればこそ、ジャンヌの立ち振る舞いを「神の名の下にフランスの利益を志向している」と認識したのでしょうけれど。

そして、デュノアとストガンバーは「臆病」というキーワードでも対の関係になっています。

「犠牲のことはお構いなしに、自分のなすべきことを神に任せようとしている」とジャンヌに対して非難したデュノアを「臆病」と非難したジャンヌは、たしかに「傲慢」と指摘されるそしりを逃れなかったと思うし。

「『残酷』というものが実際にどういうものか教えてくれた」ジャンヌが火あぶりにされようとするとき、ストガンバーはジャンヌに十字架を差し出すことをしようとしなかったことは非難されてしかるべきと思うし。

その両者が、エピローグにおいて自らを振り返るとき、「兜を脱いだ」とジャンヌの考え方に対して完全に同意しているデュノアはジャンヌからの赦しの対象であったのは当然として、ストガンバーさえジャンヌの最期に対する自らの過ちを認め、それゆえにストガンバーでさえジャンヌからの赦しの対象であると。

「臆病」に落ちていたデュノアとストガンバーが
ジャンヌがいう「勇気」を身につけたことこそ、ジャンヌにとっての喜びではなかったかと。

何しろ大司教にいたっては「お前を祝福する勇気はない」とまだ言っていますし、エピローグは結局のところ、「ジャンヌたる『生きた聖女をこの世に迎える勇気』を、皆がまだ身につけるに達していない」ことを示しているのだと思うし。

ジャンヌが成し遂げた「個人の精神の反乱」が人間あるべき姿だと、バーナード・ショーは語ってそして評価していたのだろうと。

そうであっても、ジャンヌがそのことを責めるわけでなく、いつかその時が来ることを信じて、玲奈ジャンヌが前向きな表情で暗闇に消えていく姿は神々しく、素敵だったなぁと。

●ジャンヌとはどういう存在なのか
以前もちょっと書いた感想ですが、この「ジャンヌ」は、ジャンヌ・ダルクを扱った作品としては異質で、乱暴に言うなら「ジャンヌ・ダルクを描いた異端者」かなと思うのです。

ジャンヌ・ダルクは聖人でありフランスを救った救国の主であり、男勝りに戦闘に立ち回っていた、しかるに願いは叶わぬまま敵に捕らえられた悲劇のヒロインであると…

今回の「ジャンヌ」の原作であった戯曲は、ほかのジャンヌ・ダルクを描いた作品より、より強く「ジャンヌの存在意義」を表に出していて。それはバーナード・ショーの主観であった部分を否定はしないけれども、「なぜジャンヌ・ダルクはこれほどまでに愛され、これほどまでに崇め奉られるのだろう」というへの理由を、よりはっきりと出していたように感じて、その戯曲の個性が好きでした。

これまでジャンヌ・ダルクが悲劇のヒロインとしてだけをメインに語られることが多かったことは、結果としてジャンヌ・ダルクの存在を神格化して、「空想の存在であるかのように」見せているように思って。

「ジャンヌ・ダルクは確かに『生きていた』」ということは、翻訳の小田島先生、演出の鵜山先生、そしてジャンヌ役の笹本さんが一致して体現されていたことだと思うし、その点をはっきりさせたことに、この作品を上演した意味があったように思います。

そして「ジャンヌ」カンパニーとして1ヶ月間拝見させていただいた皆さま。一人欠けても存在しないこのカンパニーでこの「ジャンヌ」を見られたことを、神に感謝せずにはいられません。

●札幌、そしてカーテンコール
大千穐楽を地方で迎えることが多いのは今に始まったことではないのですが、作品として熟成されてきながらも、その地では1回ないし2回公演で、そして観客にとってはまさに「一期一会」の機会。

どっかんどっかんと笑いを取ったり、ぐしゅぐしゅに泣かせたり、派手な動きで驚かせたりといった要素からは、いずれも離れたこの作品において、客席の受け止め方はそれはそれは心配になるほどで。

でも、当然のことながら舞台上ではそんなことを気にせず「ありのままを認めて、鼻っ面はかなり低く」演じられている様は感嘆のほかなくて、だからこそエピローグのシニカルな部分で笑いが起こったのは、客席から見ても心からほっとしたものがあったのでした。

1列目と3列目がスタンディングになるという不思議な空気の中(笑)、玲奈ちゃんが立ち位置ずれて村井さんから突っ込まれて『こらっ』とゲンコツのふりされて、いたずらっぽく舌を出す様が大楽でも見られてよかったです。村井さんから促されましたが特に挨拶はなく、最後に「ありがとうございました」で幕。

「ジャンヌ」らしい幕の下り方で、なんだかほっとしたのでした。

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『それからのブンとフン』(1)

2013.10.6(Sun.)13:00~16:10
天王洲銀河劇場 1階B列19番

席番を見ていただくと分かるのですが、完全にど真ん中です。

1場初っぱな、作家・大友憤(フン)を演じる市村さんの目線が私に真っ直ぐ・・・
だって最前列のA列の方、身体丸ごと避けるんですもん(笑)
市村さんの迫力にじっと目線で応えるという、とっても素敵な時間を過ごせました。ありがとうございます。

というわけで、音楽劇「それからのブンとフン」、行って参りました。

井上ひさし先生の作品としては、同劇場での「組曲虐殺」以来2作品目。

そういえば「組曲虐殺」は複数回観劇した中で唯一blogを書いていない作品(初演、再演と1回ずつ観劇)。
その時は、戯曲に対しての自分の向き合い方が未熟なように感じて、何か書くこと自体が怖かった気が。

という思い出もあるので、今日はそんな思いも感じつつ、今の自分に書けるそのままを。

主人公は市村正親さん演じる売れない作家・大友憤(フン)。その作家先生が書いた『ブン』という本の中から飛び出してきたのが「(オリジナル)ブン」である小池栄子さん、初め多数のブンが色んなものを盗んでいく。

それに対抗するのが橋本じゅんさんが演じる警察長官。そしてあろうことかブンに対抗するために、山西惇さん演じる悪魔の呼び屋を脅して悪魔ちゃん(正式な役名だそうですw)を召還する・・・その悪魔ちゃんを演じるのが新妻聖子さん。

というのがメイン5人の構成図ですが、まずは市村さん。以前から何度も拝見している俳優さんですが、ご存知の通り氏には氏独特の濃さがあって、時に濃いラーメンを食した後のような按配になることがあるのですが、今回はこの「フン」が作者である井上ひさし先生と重なる部分があるせいか、いい按配で押さえが利いていてとっても良いです。井上ひさし先生が実際にどういった方なのか存じ上げませんが、市村さん演じるフンは、確かに井上ひさし先生がある面ではこうだったのかなと思わせるものがありました。

小池さんは2度目。世田谷パブでご贔屓さんと共演していた「バンデラスと憂鬱な珈琲」以来の再会でありますが、何というか凛とした佇まいは、なるほどこの位置にいる理由をはっきりと感じさせます。佇まいにぶれない感があって納得。

じゅんさんはもう何回目か忘れたぐらい拝見していますが、相変わらず期待を裏切らない面白さ。
警察長官という権力側の人なのに、いじられる姿があまりに嵌っているので、戯曲的に権力を揶揄するには、これほどない役者さんという感じ。ブンに対抗するために悪魔ちゃんと組むんですが、じゅんさん&聖子さん(悪魔ちゃんメイク)2人一緒の画面への収まりの良さに絶句。
じゅんさんといえば聖子さんだもんねぇ、って違うか(それは高田聖子さん)。

悪魔ちゃんの呼び屋の山西さんは初見ですが、うさんくささ満載でいかにも「呼び屋」という職業がぴったり。本来は権力者側の役が多い方なんだそうですが、アウトローで遊び半分で、それでいて一筋縄じゃいかない感じが、じゅんさんと対峙するあたりでむちゃくちゃ生きています。ま、呼び屋といっても初回だけで、見ていた限り2回目以降は悪魔ちゃんが自分で出てくるんですけどね。

で、悪魔ちゃんです(笑)。いや、役名聞いた時にイメージぴったりと思ったことは・・・ゲフンゲフン(首締めないで)・・・は、ともかく、すっかり可愛さよりも怖さが付いてきたようで、一部には「悪魔様」という呼ばれ方をし出したようですが、今のイメージは完全に「悪魔様」だなぁ。

▼ちょいと脱線

■「私はロックでポップな悪魔様!下民ども、私の元に跪きなさい!」というのが合いそうじゃないですか・・・ぐぇっ(首締めないで)

もとい(笑)

ビジュアル的には去年吉祥寺で見た『世界は僕のCUBEで造られる』で佃井皆美嬢が演じた蜘蛛女に瓜二つ。
といって知ってる人がどれぐらいこの作品を観るか分かりませんが・・・

聖子さんの悪魔様の何が凄いかってあの眼です。
ちなみに眼には色が付いていますが、あの眼に完全に「遊び」がない(爆)。

悪魔「ちゃん」といえば遊び半分ないたずら心、みたいなイメージだったんですが、1場のエンディング手前のシーン以後、特に、眼がマジだよ・・・がくがくぶるぶる状態になってて。そりゃ子どもさんも泣きますってば。
そう、ブンにあしらわれたときの悔しがり方の可愛さと来たらもう(結局それか)。あそこだけ悪魔「ちゃん」でした。

あ、雰囲気的には「プライド」の萌ちゃんにも似てます。

それと、パンフレットの稽古場写真の聖子さんの眼力に射貫かれます。なんか黒木メイサさんぽい感じする(←好きな系統)。

さてそろそろネタバレ参りますか・・・

そういえば今回は神奈川初日も観劇出来ず(西宮でジャンヌ見てました)、東京初日も見送って、ネタバレ避けが久しぶりに大変でした。そっか、皆さま普段こういう思いをされているのですね・・・



悪魔ちゃんが直接ブンを始末することに失敗して以降、悪魔様は表面的に仕掛けることをしません。

そんな中、オリジナルブンは「権威」を皆から奪うことで、フンの描いた理想郷が実現できると信じて・・・

「人から権威を取り上げれば、皆平等で平和な世界が生まれる」・・・その思いはしかし、各国のフンの集まった場で脆くも崩れ去ります。原語から翻訳されるとき、各国の事情ゆえに、元の作者の思いが全て含まれているとは限らず、それぞれのブンにとっての重要な部分は少しずつ、人によっては大きくぶれていて。

それでいて「ブン」は本から飛び出した存在だから、どうやっても死なない”四次元の存在”。
そのブン同士が向かい合えば、結局永久のにらみ合いにしかならない・・・

ブンがフンを愛し、フンの作り出したい理想郷のために力を尽くし、そしてブンが矢折れようとも、フンは「書くこと」を止めようとしない・・・それがこの作品の一つの幹であり、それはどことなく、「書き続けること」に命を燃やした主人公な「組曲虐殺」に通じるものがあるなと。

翻って、当初は表面的に動かなかった悪魔様はブンの内部分裂を好機として攻勢に出ます。
その追い詰め方は「権力者側から見たブンの存在の厄介な部分」を的確に突き、まさに「悪魔に魂を売った」警察長官の立場を守っていきます。

あのシーンは正直、もっと憑依できると思ったけどな。悪魔様にしちゃ、理性が残っている感じがちょっと物足りなかったな。
かなり突っ走ってかなり自身を捨ててるけど、あそこだけは皮一枚残酷になれていない感じがして。

良い意味でもっと残酷になれると思うのでこれからに期待。あそこは心底震え上がりたい(歪んだ願望)

権威を奪って世界の平穏を求めようとしたブンと、
魂を奪って世界の混沌を引き起こそうとした悪魔。

そのどちらも正しさと間違いを持っているように思えました。

・・・

この日は女子会トークショー。

司会者1名+女性陣全員(5名)。上手側から登場し、下手側から順に司会者さん、飯野さん、新妻さん、小池さん、保さん、あべこさん・・・と座るはずが、なぜかあべこさんの横に椅子が一つ残る(笑)

飯野さん「ごめんなさい、私が2つ目に座らなきゃいけなかった」

あべこさん「私が2つ分座るのかと思った(笑)」

という感じでスタート。皆さま衣装は劇中のままなので、当然新妻さんは悪魔様ですが、隣の小池さんが羽根を触って遊んでた(爆)。

役柄について語ったときの話で、

新妻さん「台詞の中に「野坂昭如さん」って出てくるんですが、実は存じ上げなくて、Wikipediaで調べたら『あぁ、大島渚さんと殴り合った人だ!』と(笑)。あの衣装のシーンは楽しいです」

司会者さん「スクールメイツも」

新妻さん「そうなんですよ、スクールメイツも命賭けてます(笑)。客席からの冷ややかな視線がたまらないです(大笑)」

あべこさん「そういえば自分、高校当時スクールメイツだったんです

一同「えぇぇぇぇぇぇぇぇ」

衝撃のカミングアウトに一同(舞台上&客席)びっくり。

そういえばあべこさんといえば、
「私だけ衣装合わせの時に着物が無かったんですよ。後で知ったんですけど私だけ二反使っているんです(笑)」

というエピソードで笑いをとってました(ちなみにムードメーカーだとか。なるほど)

作品については皆さま「40年前の作品とは思えなくて現代を思わせる作品」という点は触れていらして。

新妻さん「このシーンで笑いが起こるんだって新鮮でした」

・・・えーと、玲奈ちゃんで(別作品で)同じ言葉を1ヶ月以内に聞いているんですが。

皆さんおっしゃっていましたが、稽古場で繰り返しやっていると見えないことが、客席の反応で分かることがあると。
小池さんのこの台詞にはこういう意味があったんだと言うことが、お客さんの反応で改めて知らされることがある」
という言葉が印象的でした。

たぶん、「分かったことにしていた言葉」と、実際に戯曲が舞台になったときの「その言葉の意味」というのは、客席にどう伝わったかによっても、反響の仕方が違うのだろうなと。

客席で原作を分かっている作品だとしても、実際に舞台を見たら違うものだし、しかもそれは時によって日によって違う感情を感じたりするものだし、感受性を研ぎ澄まして舞台上で演じる役者さんは、当然それ以上のものを感じるのだろうなと、作品の違いを超えて納得させられたりしたのでした。

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『ジャンヌ』(9)

2013.9.29(Sun.) 13:00~16:15
兵庫芸術文化センター(西宮)中ホール 1階C列10番台(上手側)

前日に引き続き前方席・・・とはいえこのホールは1階A列~E列まで段差なし、そして千鳥配置ではないので、正直言ってしまうとこの回は座席的にはあまりよいとは言えず。
何しろ、どセンターが隠れてしまうという・・・

そうはいっても、世田谷にも増して熱を帯びる西宮公演。

世田谷と大きく違うのは、縦(高さ)方向に座席が伸びる世田谷に比べて、西宮は奥行きがあるので、入口から舞台までの距離が非常に長く、その結果、2場、ジャンヌが男装をして初めて登場するシーンでジャンヌな玲奈ちゃんが降りてくるのに結構な時間がかかっていました。が、あの歩音からすると、あの暗い中1段飛ばしなんだろうなぁ。

逆に物音を一切立てていなかったのが7場のコーション司教な村井さん。
当然そこで登場するのが分かりきってはいるのですが、それでも「いつの間にそこにいたのっ?」状態でびっくりしました。

客席も東京公演とまた違って、良い意味でこの作品に対してフレッシュな向き合い方をしていただいている感じ。
たった2公演しかないからこそ、客席に熱意が凝縮されていたような気がしました。

日曜日の公演では、恐らく「ジャンヌ」では初のスタオベとなって出演者もびっくり。
しかも1回多くコールがかかったので、イギリスのウォリック伯爵はマントを脱ぎ捨て、オルレアンの私生児にいたっては定位置(ジャンヌから見て上手側2人目。1人目は村井さん)に戻れずになんと最下手でご挨拶という、いとも楽しい状態になっておりました(笑)。

さて「ジャンヌ」もすっかり後半日程に突入、気づけばこの日の西宮公演を見終わった自分に残ったチケットはただの1枚。
というわけで、西宮公演まで含めた各シーンお気に入りパートを中心に、公演を振り返ります。

で、当然の如くネタバレです-。

土曜の深夜、某ホテルで借りたノートPCの調子がすこぶる悪く、大部分が空に消えてしまいましたが・・・(再起動で)。




●第1場/1429年、ヴォークルール城内
 ジャンヌ唯一の女装(違)シーンな、領主様説得シーン。

 「貴方がお頭なのっ?」の一声からして
 毎回微妙に違うのが笹本玲奈様。

 このシーン、領主様を説得しているシーンではあるのですが、見ていて少し違和感があって。というのは、説得しようとして説得している感じではないんですよね。しかも、ジャンヌの中では結論は最初から出来ている。説得と言うよりは、ジャンヌが聞いた神のお告げに従い、領主様を誘導しているように感じます。領主がどう答えて、それに対してどう自分が言葉を発するかを最初から「計算」していたようなところをやはり感じます。

 ただその「計算」は少なくともジャンヌが意図していたものではなくて、むしろ神が意図していたものなのだろうなと。
 ジャンヌがジャンヌたる第一の点は、実はジャンヌの中には「神」しかなくて、自分の「考え」というものは存在していなかった・・・のではないかと思えてきます。

 それでこそ、後年「聖者」と列せられる価値があったのかと。

 以前、ジャンヌのことを「悪意に無警戒」と書いたことがあるのですが、自分が利用されることに無警戒、ということも感じます(この作品では第1場~第3場限定ですが)。

 この作品を通してジャンヌを見ていると、

第1場~第3場:「神に利用されるジャンヌ」
第5場からその後:「神を利用しようとするジャンヌ」
第6場:「神に罰せられるジャンヌ」
第6場の後:「神に赦されたジャンヌ」
エピローグ:「自らの功績の中に身を置けるという、神からのご褒美

 に見えてきたりします。

 そういえば領主のロベールについて、原作では「自分の意志というものを持ち合わせないので、その弱点をごまかすため、猛烈にどなりちらしている」という人物説明があってなるほどなと。

 ジャンヌはこのシーンでそれなりに身なりの良いドレスを着ていますが、父親は実は村の有力者の一人で・・・つまるところ「(小)金持ちの小娘」なんでしょうね(←作品違い)。

●第2場/1429年3月8日、トゥレーヌ・シノン
 このシーン、王宮内の右往左往と、ジャンヌ登場後のコントラストが激しすぎて、なんだか「第2場パート1」「第2場パート2」みたいになっていますが、王宮内の右往左往で最近ともに面白いのが、シャルル王(太子)とジル・ド・レイの、「ジル・ド・レイ衣装剥ぎ大会」(爆)。

 シャルルの浅野さんが仕掛けて、今までのパターンは「一本抜いて素直に返す」だったのに、西宮某日に至っては2本抜いて一旦返さずに自分の胸に挿ししばらくしてから返してましたが、ここのジル・ド・レイな馬場さん、世田谷中盤では一旦普通の反応に戻ってたのに、こころのところすっかりオネエモードに戻っています(大笑)。

 しかも、シャルルがジル・ド・レイのわしゃわしゃ(正式名称不明w)に「ごろにゃーん」のごとく顔を擦り擦りして、ジル・ド・レイが本気で嫌がるのがめっちゃ好きです。「あんな奴に化けるのか」が真実味ありすぎて(爆)

 ちなみに原作のシャルル評「人を食ったユーモアを持っているので、他人との会話に引けを取らないでいられる」・・・うわー、浅野さんのシャルル、イメージぴったり。

・・・

 ジャンヌが登場してから、しかもシャルルと2人きりになってからのシーンは、本来なら緊迫感があるはずですが、それこそ「人を食ったユーモア」なシャルルのせいか、どことなくコメディチック。国の動向を左右するトップ会談なはずなんですけど・・・。

 「今のままで良い、好きなように生きたい」というシャルルに対して、「自分の仕事だけをしていてどうするの、神様の仕事をすることこそ大事なこと」と説くジャンヌ。ここでのジャンヌの説得シーンって、公演前半では言葉は微妙ですがシャルルが上げていたようなところがあったように思うのです。
ジャンヌの説得プラス、シャルルの実は前向きな心情という感じで。

 が、最近とみに思うのですがこのシーンのジャンヌの勢いが凄い。あれは理屈ではないし、感情でもないし、まさに「神様への熱烈な信仰が我々を奮い立たせたのです」以外の何ものでもなく、シャルルが自然に乗せられていっているのが手に取るように分かる。

 シャルルの周囲にいる人々は、結局「自分のことしか考えていない」人ばかりなわけで、だから自分もそう生きるしか仕方ないと思っていたけれど、ジャンヌはそれじゃダメだと諭すわけですね。
 しかも貴方は神様から神託を受けるべきフランスの王であると。

 よくよく聞いているとジャンヌも実は失礼しまくりなわけで、「あなたを王様にしてあげます。奇跡としてはかなりやりがいがあると思うわ」はなかなか失礼ランキングでも上位ですし(笑)、「私もバカじゃない」と一大決心して発言した「条約」のくだりもわずか3秒でジャンヌに論破されていますし(笑)。

 それでもジャンヌを突き放さなかったのは、最終的には「”自分のことを考えていない”ジャンヌ」という、「私心のなさ」に賭けたのだろうなと。
 最近、ジャンヌが神にお礼を言っているときに、シャルルが満面の笑顔で「勇気をありがとう」と握手を求めに行くんですよね。
 前はここ、ジャンヌからシャルルに「私を信じてくれてありがとう」みたいにお礼を言っていた印象があったのですが。

●第3場/1429年5月26日、オルレアン
 デュノアがジャンヌを「聖者」として迎えるオルレアンの軍陣営のシーン。

 原作ではデュノアはジャンヌを待ちわびていると書かれているのですが、なぜだか今の舞台版はそうはなっていません。
 むしろジャンヌを試すようなことをデュノアはやっていたりするわけです。

 血気にはやるジャンヌをなだめ、自分に寄せられた手を、極めて強く振り払うデュノアに驚かされます(しかもこれは公演前半ではここまで拒絶していなかった)。

 デュノアとジャンヌの距離感は、デュノア役の伊礼さんがトークショーで語って曰く「ジャンヌ寄り8:2ぐらい(のつもり)で稽古に入ったけど、現在は51:49ぐらい」という言葉通り。
 ジャンヌにさえ警戒感を抱いている様は「私生児」という生まれの故もあるのかなと。

 ジャンヌを見定めようとしながらも、「自分より老練で賢明な連中も同意見」と言った自らの発言に対して、「ならその人達は『のろま』なんだわ」と断言したジャンヌの発言が、デュノアの凍った心を溶かしたように見えて。

 デュノアにとって恐らく「目の上のたんこぶ」なのであろう連中に対して、ここまではっきり物が言えるジャンヌに対して、今の自分にないものを見たのかと(ここ、「ほぉ」という表情をしている)。

 このシーンでは、風が変わりイギリス軍陣営へ総攻撃をかける時、急に怖くなりデュノアに倒れかかるジャンヌ、という印象的なパートがありますが、ここでデュノアがジャンヌにかけた言葉「涙なんて『どうでもいい』」という言葉が耳に強く残ります。

 「どうでもいい」と言うときは、たいがい、
 とても「どうでもよくない」から。

 ”デュノアが認めたジャンヌ”に「涙」は似合わなかったのだろうなと。
 せっかく同志として認めた、自分の「壁」を、また崩されないようにと、無意識に敷いた境界線だったように見えたのでした。

●第4場/1429年、イギリス軍陣営のテント
 イギリス軍陣営のテントにて、イギリスのウォリック伯爵が、(当世的にはフランスの)コーション司教に宗教裁判を依頼するシーン。

 ここで同伴者として登場するストガンバーが、何というか、本当に神様に仕えし神父なのか?と毎度不思議になるわけですが、それこそ魔女と異端者の区別は付かないわ、キリストの名の元に「国家」の概念を声高に言い立てるわ、その立ち位置たるや不思議なばかり。

 ただそれであっても、というかそれであるが故に、ある面において興味深い示唆をしていて、「あの乙女(ジャンヌのこと)は嘘の固まりだ。信心深そうな様子を作る」という指摘はある意味において当たっていて。ジャンヌのことを好意的に捉えるか、悪意的に捉えるかの違いでしかないかと。

 この第4場は、「呉越同舟」の最たるもので、ウォリック伯爵は「ただで何かを欲しがるのはいつも決まってキリスト教徒だ」とまで言っていて、少なくともその言葉は司教にとって許せる言葉ではないでしょうし。司教にしたところで「イギリス人は異端者だ」と言っています。

 お互いがお互いを軽蔑し合い、お互いがお互いを利用し合った末にあるものが、果たしてどんな立派なものになるのか・・・第4場のどうしようもない終結が、宗教裁判をいかなるものにするか暗示しているような気がしました。

●第5場/1429年7月17日、ランス大聖堂
 シャルルが戴冠式を挙げ、ジャンヌが孤立していく様を見せる第5場。

 ジャンヌの登場シーンは、第4場を除く全場に亘りますが、分けるとするなら「1~3場」「5場」「6場」「エピローグ」の4つに分かれるのではと思います。3場までと5場で何が違うと感じたかと言えば、ジャンヌの言葉で「私は大人になった」という台詞があります。

 この言葉に表現されているように、「1~3場」にはジャンヌの「意志」というものは見られないように思うのです。そこにあるのは「神の意志」だけ。そしてジャンヌは自らに向けられる敵意も侮蔑も、すべて「何も存在しないかのように、まったく感じていないかのように」そこに立っている。

 それに比べると第5場でジャンヌは「(民衆の)あの人たちの眼に溢れる愛情が、あなたがたの眼にこもる憎しみを忘れさせてくれる」と言っていることが強く印象に残って。

 ジャンヌは自らの行いに対して「他者からどう見られるか」ということに、”全く無頓着”だったというのが自分のジャンヌ観なのですが、第5場だけはそうではなくて。

 第3場で出てきた「どうでもいい」という言葉は、この第5場でも2回登場します。

 一つは「ジャンヌがわれわれをどう思っているか」というデュノアの言葉に対する「どうでもいい」というジャンヌの答え。
 そしてもう一つは大司教からの「傲慢」の指摘に対する「傲慢かどうかはどうでもいい」という、これもジャンヌの答え。

 ジャンヌは王宮にいる誰よりもフランスのことを思っただろうけれども、王宮にいる他の誰であっても、フランスに対して「何もしなくていい」と思っていたわけではない。
 「いつもこの娘が正しくて我々が間違っているというわけだ」というシャルルの指摘が、大司教が言う「傲慢」ともリンクします。

 「私の言葉は本当のことでしょう?」というジャンヌの叫びは、ライールが認めるまでもなく本当のことだけれども、では他の人が全部間違っているかというとそうではない、ということに気づけなかったのがジャンヌの限界だったのだろうなと。

 ただ、そのジャンヌへの周囲の視点が、ジャンヌが5場で言う「妬み」だけによるものではなく、それぞれの人の立場上の限界によるものだということを、ジャンヌも理解していわば「和解」するシーンがあることが、この作品の何よりの救いに思えます。

 敵であるイギリス側の人間を除けば、「ジャンヌを利用するだけ利用して捨てた」というジャンヌ観には、今まで違和感を感じていたので、それが何より好きなところなのです。

●第6場/1431年5月30日、ルーアン城内
 ここでは、宗教裁判前の行き違いが印象深いです。ウォリック伯爵が言った「教会の祝福を受けずに行動せねばならぬとは」と言う言葉は、ウォリック伯爵が宗教裁判の意味を宗教的には一切理解していなかったことを示すものでしょうし。

 教会としては「正しい手続きの元にジャンヌに異端破棄をさせる」ことが教会の権威を示す唯一の道、という立場であったわけでしょうから。

 第7場で、ウォリック伯爵がいみじくもジャンヌに語ったように、イギリスにとってのジャンヌの「死」は、「政治的必要ゆえのものであって、あなたへの怨み憎しみではない。しかし政治的必要はしばしば政治的失策に終わることがある。そしてこのたびのことはまったく『大しくじり』であった。」と。

 そして実はこのウォリック伯爵の言葉の「政治」を「宗教」に読み替えると、宗教裁判の評価をこれほどまでに表現している言葉はないわけで・・・

 宗教裁判の存在は「宗教的必要ゆえのものであって、あなたへの怨み憎しみではない。しかし宗教的必要はしばしば宗教的失策に終わることがある。そしてこのたびのことはまったく『大しくじり』であった。」と・・・

 先ほど4場で「呉越同舟」と書きましたが、実は本質的には何も違わない両者であったと・・・。

 それにしても、日曜日公演のジャンヌのこの6場での疲弊ぶりは壮絶だったなぁ。

 異端破棄告白書を破り捨てた後の、今まで見たことのない光景。矢折れ刀折れ崩れ落ちながらも、それでも毅然と「火を付ければいいわ!」と立ち上がるジャンヌの姿は、それはそれは神々しく・・・

 それこそ浅野さんが言ってた「玲奈ちゃんは毎日演技が違う」の典型な場面でした。
演じている方は無意識なんだろうな。

●エピローグ/1456年6月、シャルル七世の離宮
 エピローグで最初に登場するシャルルと、そしてマルタン。この2人の会話の中で興味深い会話があって。

 シャルルが「我々は自分の仕事さえしていればいいのだ」と言ったのに対し、マルタンが「神がお許しになりません」と答えているんですね。
 これを聞いた時、ジャンヌの宗教的側面を継いだのはマルタンなんだなと思って。

 ジャンヌという人物は、主に3つの側面を持っていたと思うんです。
 宗教的側面、政治的側面、軍事的側面。

 そして、宗教的側面はマルタン、政治的側面はシャルル、軍事的側面はデュノアが継いでいると考えるとなんかすっきりします。その上で「身体は炎をくぐり、魂は天に召され、あの人たちの心の中にいつまでもとどまることになる」というジャンヌの”予言”が正しく実現したと思うと、なんだかほっとした気持ちになるのでした。

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