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『ジャンヌ』(6)

2013.9.18(Wed.) 13:00~17:00
世田谷パブリックシアター 1階B列10番台(下手側)

「ジャンヌ」念願の最前列は、アフタートークショー付きの回。

ちょうど下手側階段の目の前にあたる場所だったので(席番伏せてる意味なし)、ストガンバーが狂って走り去るのも、マルタンが追っかけるのも、王室に入ろうとするジャンヌが立つのも、司教がジャンヌに慰められるのも、老年のデュノアがジャンヌに兜を脱ぐのも、すべて目の前で起こっています。

3日振りに見たこの作品。今まではジャンヌが一人突っ走る印象がありましたが、段々とジャンヌに皆が巻き込まれる様子が強くなっているように思います。ジャンヌの神々しさが増すと同時に、その引力に引っ張られないようにもがく周囲の人々、といった図式が強く見えるようになってきて、より深みが増してきた気がします。

ネタバレあります、回れ右お願いします




この日印象的だったシーンが、5場、ランスの大聖堂でシャルルが即位した後のシーン。

このシーンで孤立無援になったジャンヌが、自分の最大の理解者であろうデュノアに問いかけるシーンがあります。

「あなたが私をどう思っているか、皆さんに言ってみてちょうだい」

ジャンヌって、「女性」であることを頑なに拒否していた人なわけで、「女の欲しがるものなんか要らない」と言っていたわけですが、どうしてどうして、ここでジャンヌはデュノアに、自分に対する特別な気持ちを「利用」しようとしているように見えるのです。

端的に言ってしまえば、「あなたは私に惚れているのよね、だから私を助けて頂戴」というような気持ちが。

そのジャンヌの気持ちを知ってか知らずか、デュノアはジャンヌの期待に応えない。

このシーン、最初見た時からずっと違和感があって。孤立していたジャンヌにとって、デュノアがジャンヌの最大の理解者であって欲しい、と一観客として思ってはいたけれども、どんな経緯をたどってか、現在の演出ではデュノアがジャンヌに対して特別な感情を少なくとも表に出すことはなくて。

この作品でのジャンヌは、他の作品のジャンヌに比べて、とても普通っぽい(この日のアフタートークでも語られていましたが)のが特徴に挙げられます。

他の作品のジャンヌって、いわゆる「神々しい」「奇跡の」存在なわけですが、「聖女ジョウン」の「ジャンヌ」は羊飼いの娘が、そのまま戦場に向かったピュアな面を見せていて、それが魅力でもあり特徴でもあり、異質でもあり。

少女ぽい面を残しているジャンヌが、自ら「女」を拒否しているのにも関わらず、このシーンでは「女」であることを半ば利用しようとしている気がして、違和感を感じていました。

デュノアが何故このシーンで、ジャンヌの気持ちを薄々感じつつも、その期待に一切応えないのか気になっていて。
「ことここに及び『女』であることを利用する」ことに自ら応えることは、「女」を表に出してこなかったからこそ惹かれて来たジャンヌの行動として、少なくともデュノアにとっては許容出来る部分ではなかったように感じて。

デュノアにとっては自分の立場を危うくするところから逃げたかった面も、もちろんありはするでしょうけど。



他の方の感想を読ませていただいておっ、と思ったのがジャンヌに対する教会のスタンスの話。

宗教裁判をコーション司教に依頼したウォリック伯爵は「ジャンヌを救おうとする宗教的願望は私にはない」と言いますが、前回も書きましたが、教会にとってジャンヌは「教会を無視して神と直接繋がろうとする」異端者。
だから本来はイギリスがジャンヌを排除したいように、教会もジャンヌを排除したい・・・という理解をしていました。

ところが、宗教裁判においての目的は「ジャンヌの魂の救済」であり、異端を破棄するよう促すわけです。
ここが見ていて分からなかったのですが、その方曰くキーワードは修道士マルタンが言う「慈悲を持って行わなければならない」という言葉。

つまるところ、教会がジャンヌを「慈悲を持って救えば」、皆、教会を尊敬するであろう、という意味合いからの宗教裁判なのですね。



5場のシーンでは、「実は嫌いというわけでもないのだが」と言うジル・ド・レイを筆頭に、ジャンヌが感じるほどの悪意を、それほどまでに登場人物が放っているわけでもないのが、見る度にちょっと違和感。

ジャンヌはこのシーンで「あなたがたが放つ憎しみを、民衆たちが癒してくれる」といった言葉を吐き、自分の「殻」に籠もるわけですが、え、あれでジャンヌは憎しみを感じるの?というのがちょっと不思議なのです。

考えてみれば、ジャンヌは自分の言葉で皆を動かしてきた人ですし、相手の気持ちを上手いことを掬い上げることには実は長けているわけで。

1場の領主様とのシーンも「私にあれこれ命令して良いのは神様だけ」と言っておきながら、領主様が自分のコントロール下に入ったとみるや、不要な抵抗はしていなくて。領主から「お前に命令する」と言われても、それが自分の望むこと(=神の望むこと)とずれていない限りにおいては従順だったりするわけです。

ジャンヌって、自分の思うまま願うまま、言いたい放題やりたい放題という印象が強かったので、5場でそれほどまでにジャンヌが傷つくことが、違和感があって。

一般的な「ジャンヌ」の物語では、ジャンヌが王室内に入っていることを、それはそれは忌み嫌う魑魅魍魎な空間の中で、ジャンヌはいるわけですが、今回の「ジャンヌ」では確かに自分の思うとおりに動いてくれないとはいっても、それはジャンヌに対しる嫌がらせではない。

確かにフランスに対する「反逆者」(ここでいう「反逆者」はウォリック伯爵が補足説明を行った「対象に対して自分の全てを捧げない者)ではあったからこそ、ジャンヌにしてみれば「王室にはフランスの味方がいると思っていた」という思いになるわけですが。

この5場で大司教から発せられる「見放す」という言葉が、実はこの「ジャンヌ」の作品の肝なのかなと。

「見捨てる」ではなく「見放す」

この「ジャンヌ」に登場するフランスの人々は、ジャンヌに対して「成功に対する怨嗟」はそれほどまでにないのが意外で。皮肉なことに、実はデュノアが最もそれが強いように思います。自らの立場から考えて、ジャンヌを救えなかった人々たちが、エピローグでジャンヌに対して懺悔をする。

でも、ジャンヌはそれに対して憎しみを持ってもいなくて、むしろその人の立場に対する最大限の敬意を持って接し、その上自分の足りなかった部分を吐露してもいる(私が男だったらあなたたちをそんなに困らせなかっただろう、でも私は天上のことしか頭になかった、だからあなたたちを困らせるしかなかった・・・というくだり)。

”見捨てたくはないが、見放さざるを得ない”・・・それがジャンヌの存在に対する、最大公約数的な周囲の反応だったのかなと、そう感じられてなりません。



余談ですが、この戯曲の作者であるバーナード・ショーは、序文において、自分の戯曲に対する批評に対して、「神さまは言っていたわ、あなたたちはみんなバカだって!」と言わんがばかりの反応を示していたりします。
ショーの立ち位置とジャンヌの立ち位置は、そういう自尊心の部分において、似てるような気が、ちょっとしました。

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