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『ジャンヌ』(7)

2013.9.21(Sat.) 13:00~16:15
2013.9.22(Sun.) 13:00~16:15
2013.9.23(Mon.) 13:00~16:15

いずれも世田谷パブリックシアター 3階A列

「ジャンヌ」東京公演、私的なラスト3回はまさかの3日連続観劇。
3階A列センターブロックを下手→上手→中央と移動しましたが、トークショーで演出助手の方が言われていたとおり、3階は玲奈ジャンヌの神への祈りがまっすぐ来るので、とってもお得感のある席です。

東京公演後半は、特に笹本玲奈ジャンヌへの憑依度が上がっていて、他の登場人物が呑まれていく様子がありあり。
特に一番印象的だった公演は22日の公演。とにかくあれは”奇跡”以外の何物でもなく・・・
良い意味で狂ってて、理屈じゃなく周囲が引っ張られていました。

特にシャルル王がその気になるまでの心の動きが説得力ありすぎて、シャルル王からジャンヌに握手を求めに行くようになっているんですよね、はっきりと。「自分に勇気を付けてくれてありがとう」という気持ちがダイレクトに伝わってきました。

それに比べると23日は多少正気が戻ってしまった感じで、その分、危なっかしくなってしまって、1場で領主様にシノンへの派遣を認めてもらった後、ジャンヌが喜びすぎて、22日の公演ではジャンプしていてそこまでは良かったのですが、23日の公演では走り出そうとしてまさかのマジゴケ・・・滑った感じでしたが。

●デュノアが本気になった時
正確にはデュノアがジャンヌを認めたのがいつなのか・・・について今まで分かっていなかったのですが、3場で小姓がジャンヌの存在に接して本気になったのを見て、デュノアは本気になるのですね。

デュノアはこのシーンでジャンヌを試している。
「軍人としてではなく聖者として迎える」わけで「私に指図は許さぬ」と。

デュノアは優れた指揮官であり、「西風さえ吹けば」の一点を除いては、完璧に状況を把握し、打てる手を打っていた。でもその西風は一向に吹かず、それ故、小姓から見れば「指揮官(デュノア)は本気になってくれない、西風が吹くことだけを願っている」という点で半ば失望もしているように見えて。

そこに突然現れたジャンヌの真っ直ぐな意見。
「臆病風から救い出してあげる」というジャンヌの言葉に対するデュノアの答えは、実は5場とも一貫していて、「臆病風を放り投げればいささか好ましくない指揮官になってしまう」という3場のデュノアと、5場の「自分が動けばどれだけの兵を失うかを考える」は理知的な指揮官として好ましいものなのかもしれません。

デュノアが名指揮官であることはイギリス側にも認められていて、でもその実、ジャンヌ的な「勇気」が加われば、もっと与しがたい敵になると思われていたのではないかと・・・

何となくですが、デュノアもジャンヌの戦いぶりに惹かれながらも、危険さは感じずにいられず、だからといってジャンヌを全否定するつもりはなくてデュノアも、ジャンヌ的なものが自分に足りないことを認めてはいるように思えたのでした。

●勇気という言葉
この作品の中で「勇気」という言葉を最も発するのはジャンヌですが、この「勇気」という言葉を発する登場人物はあと2人いて、そのうち1人が実は大司教なのですね。7場のエピローグでジャンヌに対して、「お前に祝福を与える勇気はないが、お前の祝福には浴したい」という、世事的にはとっても都合の良い(笑)ことをおっしゃっておられますが、この言葉は「ジャンヌたる聖者が、生きて認められうるか」というテーマに対する一つのヒントでもあるわけですよね。

ジャンヌがジャンヌたる部分は「自分が成し遂げることへのこだわりがない」ことだと思うのですね(前も書きましたが)。

「自分の仕事ではなく神様の仕事を考えなければならない」ということに対して、ジャンヌは自ら解説として「自分の仕事のことしか考えないのは、自分の身体のことしか考えないのと同じ」と別の場面で言っています。

「神様の仕事」とはつまり「自分の精神」のことなのですよね。
ジャンヌは火あぶりにされることに対して、最終的には全く頓着をしていない。これはいみじくもコーション司教が「身体が火あぶりにされても苦しむのは一瞬」と指摘し、「私が思うのは彼女の魂の救済である」と言っていることともリンクします。

ジャンヌは自分の身体は焼かれても精神は神の元に行けたから、それはそもそも、教会が恩に着せる(宗教裁判で慈悲を示す)ことをしなくとも済んだ話で・・・それはコーションの無力感ともどことなく繋がっているような気がします。

そして「勇気」という言葉をもう1人言っている人がいて。それが敵にあたるイギリスのウォリック伯爵。
ジャンヌが火刑台で焼かれる光景を見て、半狂乱になっている従軍神父・ストガンバーに対してかける言葉。

「あれを見たのか! あれを見る勇気がないのであれば、私のようにここにじっとしていればいいのだ

これは何種類かの意味に取れますが、普通に解釈すると「あれ(”残酷”のことかと)を見る勇気が自分にはない」ということなのでしょう。考えてみれば、コーションに対して宗教裁判を依頼し、それがイギリスの差し金によるものと見せないように仕組んだこと、そして何より「髪一本に至るまで焼き尽くせ」という依頼を死刑執行長にしていたという行為・・・相当な臆病者というのが見て取れます。そう見てくると、偉そうにしている様子が虚勢にまで見えてしまうのが不思議です。

●プロセスと結果の関係
7場では、ジャンヌの宗教裁判と復権裁判を並べて修道士マルタンが興味深いことを言っています。

「宗教裁判は、極めて真っ当な手続きによって行われ、最後の結論である『火あぶり』だけが間違っていた。
 復権裁判は、恥知らずな偽証を初めとする多数の虚偽があったのにもかかわらず、最後の結論である『名誉回復』は合っていた。神の思いは誠に図りがたいものがある」と。

簡単に言ってしまうと、宗教裁判は「プロセス正解、結果不正解」、復権裁判は「プロセス不正解、結果正解」なのですね。

それを見ているとジャンヌの肉体的な死は政治的に必要だっただけでなく、宗教的にも必要だったのかもしれないのなと。(コーションもストガンバーに対して、「いつの世にも犠牲は必要と申すか」と聞いているのがそれを示しているかと。)

そう言えば4場で、「魔女と異端者、何が違いますか!」と言ったストガンバーに対して「無知」とコーションが言っていますが、「異端者」は「キリストを信じているが、信仰の仕方が間違っている」のに対して「魔女」は「キリストを信じていない」人。
だから「キリストの旗の下に戦ったジャンヌは魔女ではありえず、異端者である可能性だけが残る」わけですね。

「苦しむのは、無知なるものの役目」と、宗教裁判の後、査問官(ル・メートル)は言っています。
ストガンバーは無知故に苦しみ続けていますが、ジャンヌの苦しみは6場の宗教裁判に集中しています。
ここでの「無知」とは「自分がなぜ裁かれなければならないのか」は自分で分かっていなかったからなのでしょう。

自分が貴族や王族から愛されない理由も分からない、自分が裁かれる理由も分からない。
でも幸いジャンヌは「事の本質だけは掴んでいた」

いかなる責めを受けようとも、魂が昇華し天に召され、神様に迎え入れられれば、それが「ジャンヌが生きた意味」である、ということを。

この作品はジャンヌ・ダルクを描いた作品としてはかなり異質ですが、物語として神格化されることがほとんどなジャンヌは、それゆえに実存を疑われる存在であるわけで。

「ジャンヌ・ダルクは生きていた」ことを前面に出してジャンヌが果たした意味を見せる、ということがもう少し表面に出ていれば、また違った受け入れられ方をしたのではないかと思います、舞台作品として。

サブタイトルとして「ノーベル文学賞作家が暴く、聖女ジャンヌ・ダルクの真実」とありますが、この作品で見せているのはむしろ、「ノーベル文学賞作家が暴く、聖女ジャンヌ・ダルクの意味」ではないかと思えてなりません。

東京楽は拝見できませんが、西宮2回・札幌1回とまだ見る機会が残っています。
まだ補充できていないピースを、埋めに行きたいものです。

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