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『ジャンヌ』(7)

兵庫(西宮)公演突入の前に、原作戯曲を読み直しています。

観劇中分からなかったり、分からなくなっていたことが浮かび上がってきて、なかなか面白いです。

で、そういう話になるということは当然ネタバレです。




●エピローグは全員集合ではない
第七場、エピローグにはジャンヌに当時関わった人々が皆出てきている・・・と思っていましたが、実は二人欠けています。

第二場のシーンに登場した、ジル・ド・レイと侍従長の二人。
とはいえ、侍従長はエピローグシーンでは2役のもう1役、それも重要な”死刑執行人”として登場しますので、役者(小林勝也さん)としては登場しています。
ところが、ジル・ド・レイは影も形もありません。

エピローグのシーンの位置づけが、「ジャンヌと関わり、ジャンヌによって大なり小なり人生を変えられた人が、自らの25年を通して、ジャンヌの存在の意味を振り返る」シーンですから、ジル・ド・レイはこの作品上においては「ジャンヌによって人生を変えなかった人」なのかなと。

ジャンヌは第二場で、大司教に対して無礼であるとジル・ド・レイを叱っていますが、その前、大司教からの忠告に対して「毒を食らわば皿まで」と茶化していますし、大司教からも「笑うべき時と祈るべき時をわきまえなければ、やがて縛り首に処せられるだろう」と”予言”されているわけです。

・・・と思って読み返してみると、実はジル・ド・レイは「十一年後、教会に反抗し、恐るべき残虐行為に快楽を求めようとした咎で、絞首刑に処せられた」という記述があって、あぁなるほどと。

ジャンヌに関わることによって、自分の人生を変えることも、変わることもなかったから、という一面ともう一面、神に唾吐く者がこの場にいられるわけがないということなのでしょう。

●火あぶりとは
舞台を何回も見て、原作も何度も読んで、それでも分からない「火あぶり」の話を。

第四場、司教コーションと伯爵ウォリックの会話の中で、司教は「教会は火あぶりなどしない」と言及しています。その後で「頑迷な異端者を破門し、俗世間の手に委ねることはある」という発言をしていますので、実質的には「火あぶりにする余地はある」と伯爵は勘違いするのですね。

が実際、第六場の宗教裁判のシーンでは「宗教裁判で異端を取り下げれば、その身に対して手を出す者は神への反逆者だ」と言っています。司教はこのことをわざわざ言わなかったのか、自明だと思ったのか・・・

伯爵にとっての誤算とは「宗教裁判という形で神を利用した者は、神に罰せられる」ことを信ずるほどにはキリスト教信者ではなかったことなのだろうなと。

第四場で不思議なのは、司教が従軍神父のストガンバーに対して「己の国を聖なるカトリックの上に置くなら、あの女とともに火あぶりを覚悟せよ」と叱責しているところ。

直前に司教は「教会は火あぶりはしない」と言っているのに「あの女と共に火あぶり」と言っている矛盾。
単純な「感情の昂ぶり」と見るか、それとも意味があるのか、いまだ分からずにいます。

●女としてでないジャンヌ
第一場で何気なく領主が言われる言葉「兵士の中にいる女がどういう奴か、おれはよく知っている」そしてそれに応える形でのポリーの「あの娘を女として見る兵士は一人もいない」・・・これ、最初何の意味か理解できなかったのですが・・・。

ジャンヌの異端の罪として上げられた「男装」。そしてこの男装をなぜ止めないかの理由の一つとしてジャンヌが挙げているのが「教会の手に委ねられたはずなのに、イギリス軍の兵士の中に閉じ込められている」ということ。

この場で女の服装をすればどうなるか・・・を考えたときに初めて第一場の領主とポリーの言葉の意味が理解できたのでした。
鈍すぎますね。

●たまには小ネタのように
第一場、ジャンヌが領主を説得して、ついに馬と鎧と兵隊を手に入れるシーン。
シャンパーニュ一の雌鳥が卵を産まず、領主はしびれを切らし賄方を責め立てるわけですが、ジャンヌをその場にとどめず、シノンへ赴くことを決断した後、なぜか雌鳥が山のように卵を産み出し、「これこそが奇蹟だ!」ということになるのですが・・・

とある日、卵の1つが机から落ち、弾んだのです(つまるところゴムボールだったわけです)

そんな時、賄方の酒向さんが言った一言。

「卵が割れていません!殿様、これは奇蹟です!」

リピーターたっぷりの3階A列(最前列)からも大笑いが起きる黄金のアドリブ。
このアドリブ、それから3日間毎日恒例になったのでした(笑)。

●神の王国
「王様以外の何者も私に指図できない」という領主に対して、「私の王様は天にましますお方(=神様)ですから」というジャンヌのクリーンヒットが決まる第一場。

「キリストの国には王は一人(=キリスト)」であり、国王は神の信託の元に国を治めるに過ぎない・・・という、神学的には「まったく正当」であることを、無意識のまま言っていたジャンヌ。

宗教裁判の依頼に対し、「自らの身を危険にさらすような真似」をコーションがなぜしたか。

ジャンヌが「教会の存在を無意識のまま無視している」こと以外は”すべて合っている”からの焦りじゃないかと思う。
なにしろ大司教でさえ「自分の考えがぐらついてくる」とまで言う人なわけで。

●戴冠式の違和感
原作戯曲と舞台上演台本では当然、かなり抜粋されているわけですが、かなりはっきり台詞が抜かれているのが第五場、戴冠式のシーン。

ジャンヌがデュノアに対して「あまり手荒な真似はしないわよね」と言っているシーンがかなり違和感だったのですが、これ、原作では直前でデュノアは実は血気盛んに戦おうとしているんです。「これからもイギリスを打ち負かしてやる」と。

ここのシーン、舞台版ではデュノアは非戦派(今は戦うべきときではない、との見解)で、ジャンヌとライールは好戦派。
ところが戯曲的には実はデュノアも好戦派なので不思議なシーンになっちゃってます。

で、ジャンヌはここで「パリを取りましょう!」と言って孤立するのですが、戯曲には「首都なくして、あなたの王冠に何の価値がありますか」という、とても分かりやすい台詞があって、なんでこれ外しちゃったかな・・・

「神は人間の奴隷ではなく、乙女の奴隷でもない。神は君の敵に対しても公平なのだ」というデュノアの言葉は、ジャンヌのはやる気持ちを抑えるために有用な台詞だったろうし。

印象的だったのは、身代金の話を受けたジャンヌは、原作では誇り高く、それ(身代金)が名誉であるかのような印象を受けるのですが、舞台版ではすこぶる衝撃を受け、より神に帰依するしかない、と思ったかのように見えて。

そういえば、「私にはもっといいお友達がいます」と言っていたジャンヌ。神様を”お友達”と呼んだのは果たして異端ではないのでしょうか(苦笑)。

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