« 劇団HOBO『犬、だれる』(1) | トップページ | 劇団HOBO『犬、だれる』(2) »

『ジャンヌ』(5)

2013.9.14(Sat.) 13:00~16:15
世田谷パブリックシアター 3階A列20番台(センターブロック)

5日ぶり4回目です。3階A列は舞台からそう遠くないし割安でお勧めです。

内容編です。初っぱなからネタバレ全開で参りますのでご注意ください。




なお、宗教的な面については純宗教的な側面としては間違っているところも多々あるとは思いますが、あくまでこの作品で読み込んだ事項を、可能な範囲で個人的な理解をした結果であることをご寛容ください。




●作者の立ち位置
今回の「ジャンヌ」の原作である「聖女ジョウン」は、バーナード・ショーの戯曲で、この作品で氏はノーベル文学賞を受賞しています。最近めっきり言われなくなった(そしてタイトルロールの聖女様が最後まで覚えられなかった)サブタイトル「ノーベル文学賞作家が暴く、聖女ジャンヌ・ダルクの真実」はここから来ています。

バーナード・ショーはアイルランド人。この作品でイギリスがかなり悪者的に描かれ、フランスが好意的に描かれているのは、アイルランドとイギリスがずっとドンパチやってて、イギリスとフランスが百年戦争やってることから来ていて・・・つまり、「敵の敵は味方」みたいな状態になっています。

この作品が描かれた1920年、これはジャンヌが聖女に列せられたことがきっかけですが、時は第一次世界大戦の時。
大戦の当事国であるイギリスに向けて、アイルランド人であるショーが、このタイミングにフランスの英雄/ジャンヌ・ダルクをわざわざ描いているのが嫌らしいなぁと。

●似て非なるもの
演出の鵜山さんは前演出作の「二都物語」で、「2つのもの」という観点でいくつかの視点を提示されていたことがあります。対立するものの関係性から本質を浮かび上がらせる手法という感じがしました。

今回の「ジャンヌ」でも重要な「2つのもの」が2組あります。

1つは「神」と「教会」。

これはイコールではない、というのがジャンヌの犯したとされる”宗教上の罪”に大きく関わってきます。

ジャンヌは「神の啓示を直接受けて」行動します。それが当たり前であるかのように。
が、教会にとってはそれは自らの立場を危うくする以外の何物でもないのですね。

「悪と直接対峙する教会は、教会の名において神の意向を推し量る」と大司教が言っています。

ジャンヌは神と直接やりとりしている、それが真実なら教会が要らなくなってしまいます。
教会の存在意義、大司教、司教、神学者もろもろ、宗教家の存在意義が消滅してしまいます。

ジャンヌは自分が意識しないままに、現世における宗教家をみんな敵にしているとも言るかもしれません。

「自らの立場を教会の上に置くのであれば、教会はお前を見放すだろう」とも大司教は言いますが、確かに「教会は要らない」と言わんばかりの行動をしておきながら、教会に助けを求めるジャンヌというのも不思議なもので、デュノアが呆れるのも無理はありません(苦笑)。

地獄から1日だけ舞い戻る元兵士に「地獄には元聖職者も元貴族もいますよ」と言わせている辺り意味深です(笑)。

・・

もう1つは「国王」と「領主」

これはイコールではない、というのがイングランド(イギリス)が、ジャンヌを問題視した点に関わってきます。

「人は2人の主人に仕えることはできない」。

そしてジャンヌにとっての主人は神。
そして国王は神の神託のもと、国家の単位を統治する。

この点において宗教家であるコーションは「神学的には全く正当」と言っているわけですが、ウォリックはそうはいかない。

そうなれば領主の立場はどうなるのか。
国王はそれでいいとしても、領主とは「領地」を持ってこそ、存在意義を持つ。
領地を持たず、国王から委任されて領主となるのであれば、その存在はそもそも根拠を持たないわけで、いつその場が崩れるともしれない。

1幕4場、前者の立場でコーション、後者の立場でウォリックが会談を行ない、ジャンヌを宗教裁判にかけることを依頼するシーンは、こういったお互いの問題意識のもとに存立しています。

そして前者を「プロテスタンディズム」、後者を「ナショナリズム」と呼んでいます。

ここは原作についても評価が分かれるところのようなのですが、ショーがジャンヌを評価しているところは、どうもここに立脚しているようで、序文で「ジャンヌは最初のプロテスタントだった」「フランスにとってのナショナリストのはしり」といった表現をしていてます。

そして、前者については「カトリック教会の存在基盤を揺るがしたプロテスタントを、カトリック教会が聖者として認めたことに大きな意義がある」と評価していたりします。

後者についてはフランス革命につながる「国家」という概念に火を付けたのがジャンヌだったと。

ウォリックがイングランド枢機卿が言う「フランス『国』」という発言に敏感に反応しているのは、「領地」を権力の根拠にしている「領主」の立場から。「領主」の立場を危うくする「国」という概念を認識させるジャンヌは危険な存在だから。
ゆえに、”髪一本、指一本に至る全てを焼き尽くす”よう命じたわけで。

ただ、「宗教的には全く無実」とまで審問官が言うジャンヌを、「男装している」という理由だけで宗教裁判で有罪、終身禁固刑。それに背いたジャンヌを破門して俗人の世界に引きずり下ろす・・・のはいかにも乱暴な理由付けで。

教会としては「教会をないがしろにすることが異端」と言いたいのが本音なのでしょうが、表向きそうは言えないので、別の理由付けをする。
イギリスが主体になってジャンヌを処刑するとフランスのナショナリズムに火が付くので形としては教会が決めたことにする。

その「本質からずれた部分」が、何よりジャンヌが処刑されたことによる効果なのかと。

要はどっちも逃げてるわけで、終身禁固刑より火あぶりを選び、火刑台から天に召された、ある意味の「正義」を体現したジャンヌに対して、責めた側はいささか以上の、卑怯のそしりを逃れないわけで。

それが「政治的な必要性はあったが、政治的必要は時に政治的失敗を意味する」とウォリックが語っている部分ですね。

それにしても、「ごめん。必要があって亡きものにしちゃったけど、やっぱやるんじゃなかったわ」って言ってるって凄いシーンだ(笑)。

憎むことを知らないジャンヌでもそりゃ怒るよ(爆)。
ここ、先日見た時はウォリックから言われた言葉を、それはそれは棒読みで返してたジャンヌが面白かったです。

・・・

もう一点として提示するなら「ジャンヌ」と「ジャンヌたるもの」の間には大きな違いがあるかなと。

ジャンヌの身体を焼き尽くすことが出来ても、ジャンヌの精神はそもそも無実なのだから焼かれる理由がない。
ジャンヌの精神、つまり「ジャンヌたるもの」が残ることこそ、実は教会や貴族にとって危険きわまりないものだったと。
だからこそ一つ残らず焼き尽くしたかった(少なくとも貴族は)。

でも、ジャンヌの心臓は焼け残ったし、ジャンヌの精神は残った・・・からこそ、ショーが序文で言う「ナポレオンが体現しえたナショナリズムの実現の露払いとしてのジャンヌ」がそれほどまでにフランス「国」の英雄として語り継がれているのだと。

・・・

5場においてランスの大聖堂でのシャルル国王の戴冠式の後、ジャンヌに対して周囲の人々がジャンヌを止めるシーンがあります。

ここでのやりとりで印象的だったのは、この言葉のやりとり。

ジャンヌ「兵士たちは鎧も着けられず、身代金も払うことができない。」それらの兵士が私を支えてくれるのだ、と。

デュノア「お前が自分がなすべきことを神に任せようとするならば、我々は必ず敗れるだろう。お前は鎧を剥がされ、ジャンヌを捕らえた運の良いイギリス兵は、ウォリック伯爵から1万6千ポンドの身代金を受け取ることになるだろう。だが鎧を剥がされ、ジャンヌが不死身ではないということが知られれば、その瞬間、お前はわが軍の一兵卒も動かす価値もなくなる」

・・・ジャンヌが暴走して敗れれば、「鎧も着けられず、身代金も払うことができない」存在になり、軍が助ける価値もなくなる。
そうなる前に、戦いから身を引き、田舎に帰るべきだ・・・と。

デュノアのジャンヌに対する思いは、原作を読んだときと舞台版では少し自分の中ではズレがあるのですが、舞台版で見るならば、ジャンヌに身代金の件を言い出そうとしなかったことにはデュノアのジャンヌに対する強い配慮を感じます。

知らないのなら、知らせたくはない。でも言い出さざるを得なかったことへの苦悩が、デュノアに感じられて強く印象に残ります。デュノアがジャンヌを「守れなかった」と最初に思った瞬間なのかと。

デュノアはジャンヌに対して、「聖女であることの意味」を強く感じている気がして。
デュノアにとって、自らを勇気づけるシンボルとしてのジャンヌはどうしても欲しかった。だからこそ、ジャンヌのカリスマ性がまだ光を放っているうちに、消えないうちに、そのシンボルを一線から退かせたかったように思えて。

それはジャンヌに対しての特別な感情もあったろうし、自分の立場を守るために必要なピースでもあったように思えて。
でも、ウォリック同様にデュノアも、ジャンヌを見誤っていた部分があったように思えて。

というのも、ジャンヌは最後、終身禁固刑を破棄させ、結果として自ら火刑台にかけられることを望む。

それによって得られる”効果”を最初から”計算して”やったものとは思えなくても、結果としてジャンヌは「自分が生き残って自分がなす」ことに対する執着はなかったのではと。ここがジャンヌ・ダルク的なものが男から現れなかった点なのかなと。

男という生き物は、かなりの部分、存在意義で生きている生き物だから、大なり小なり「自分が成し遂げたこと」に対するこだわりをもっている部分があるわけで、ジャンヌがその点において「男性的ではない」のかなと。

「自分のことだけを考えること」についてジャンヌがデュノアを叱責しているところもその辺りに立脚している気が。
ジャンヌはそれを意識してやった風じゃない(本人曰くは「神の思し召し」と言っていますが)のが神がかっているのでしょう。

ジャンヌの現世での最期に接して、「終わりではなく始まり」と言っているマルタンもそうですし、宗教裁判で裁く側だったコーションやジョンも、ジャンヌの存在意義について薄々気づいている風がある。分かっていなかった人も「得体の知れない何か」をジャンヌに感じたからこその危機感でしたでしょうし。

ジャンヌ「肉体的な最期」は、ジャンヌたるもの「精神的な始まり」でもあったのではないかと。

シャルルが「誰一人としてわかってはいなかった。何があの女にとって重大だったかということは」と後年語らせて、その上でエピローグで現世の関係なしにジャンヌと向き合えるようにせしめたことが面白いなと。

コーションが「異端者は死んでいた方がよいのだ」と言って笑いを誘いますが、つまるところジャンヌのような存在は自分に害が及ばない範囲において受け入れられうる、と言っているのが興味深いです。

ありていに言うと「他人事ならのんきに見ていられるが、いざ自分に火の粉がふりかかるとたまったもんじゃない」(笑)ということですね。

ラストが「ジャンヌと愉快な仲間たち」みたいになっていますが、現世ではジャンヌを糾弾せずにいられなかった立場の人もひっくるめて、「ジャンヌという存在は自分らにとって大きかったなぁ」という空気で終わるラストは、案外悪くないものです。

ジャンヌの偉業を言い立てるよりも、周囲の人たちのしょうもなさ-といっても立場からしてそうならざるを得ないのですが-と一緒に見せることで、「ジャンヌという存在の意味」をより分かりやすく見せている気がしました。

ジャンヌたるものとどう向き合うかを、一人一人に考えさせるかのような気がしました。

●そういえばプチポイント
地獄から来たりし元兵士さん、ここのところ歌が毎日変わっています(笑)。

●時には世俗のように
「あなたが私のただ一人の信者なの?」と元兵士さんが言われるシーンが好き。
言われてみたい(笑)

|

« 劇団HOBO『犬、だれる』(1) | トップページ | 劇団HOBO『犬、だれる』(2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/74093/58193102

この記事へのトラックバック一覧です: 『ジャンヌ』(5):

« 劇団HOBO『犬、だれる』(1) | トップページ | 劇団HOBO『犬、だれる』(2) »