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2013年9月

『ジャンヌ』(8)

2013.9.28(Sat.) 16:00~20:00
兵庫芸術文化センター(西宮)中ホール 1階A列10番台(下手側)

兵庫遠征、世田谷で1回だけあった最前列の奇跡再び。
世田谷が終わって中3日、芝居がますます深まっていて感動。
何度も見た上での最前列なので、今までのことを思い返すのにも有効ですし、こんなシーンだったのか!と思い直すこともしばしば。

東京後半では少し控えめだった笑い声も、ここでは兵庫初日ということで各シーンで頻繁に笑い声が上がっており、終演後のアフタートークでも司会の今井さんが感謝されていました。

今日はひとまずトークショーの速報ということで、たっぷり35分はあったトークショーの内容をレポートします。
登壇者は4人の俳優陣。上手側から伊礼彼方さん(デュノア役)、笹本玲奈さん(ジャンヌ役)、浅野雅博さん(シャルル役)、今井朋彦さん(ウォリック役)。司会は最下手側の今井さんが務められます。

終演後10分でのトークショー開始、完全に帰り支度ができている
笹本さんと今井さん。
風呂上りの後のような(爆)浅野さん。
そして「なんで皆さんそんなに準備早いんですか!メイク落とし終わってないですよ!」と眉毛が老けメイクなままの伊礼さん(笑)。

今井さんが司会で上手く回そうとするのですが、
約1名その空気を折り砕く方がいらっしゃいまして(笑)。

でも全体的には「タイトルロールの」(←複数回言っていただいていました)の笹本玲奈さんに振っていただいた場面が多かったです。

ありがとうございます。

●お互いの関係を
今井さんと浅野さんは同じ文学座ということで、今井さん⇒浅野さん「ちょっと後輩」、浅野さん⇒今井さん「だいぶ先輩」ということでしたが
・・・伊礼さんがちゃんと突込み入れてます。
突込みセンサー、相変わらず絶好調です。

そして笹本さんと伊礼さんは「ミュージカルチーム」と紹介されていましたが、浅野さんいわく「自分と(隣の)玲奈ちゃんとの間には壁があるんだね」と線を引こうとする始末(笑)

が、今井さんが触れていましたが、笹本さんと伊礼さんは実は初共演。
「どうでした?」という振りに対して。

玲奈ちゃん「私人見知りなので、伊礼さんとお会いしたのはたぶん取材のときが初めてだったと思うんですけど、とにかくしゃべるじゃないですか(笑)」
伊礼さん「え、もっとしゃべる人いるでしょ」

玲奈ちゃん「伊礼さんより喋る方とご一緒したことないです
(大笑)」

伊礼さん「でも取材使われるのは(玲奈ちゃん)だけ(笑)」
玲奈ちゃん「言いたいこと絞っているんです(えへん)」

玲奈ちゃん「でも、伊礼くんの(その)おかげで稽古も最初からすっと入っていけてありがたかったです」
・・・という、若手仲良しコンビの会話。

伊礼さん「何しろベテランの皆さんばかりじゃないですか。世田谷(パブリックシアター)の楽屋って、4人部屋だったんですが、Mさん、Nさん、Aさん、そして私ですよ。何も言えるわけないですよ(笑)。
しかもMさんとNさんが討論始めるとAさん死んだふりするから僕に降ってくるし(笑)」

・・・大人の事情により実名を伏せましたことをお詫び申し上げます(爆)

●消費量って

今井さん「このお芝居ってエネルギーの消費量ハンパないじゃないですか。
 笹本さん、どうですか」

笹本さん「稽古のときは本当、1場ごと『帰りたい』って思ってましたね(爆)。
 特に1場、2場、3場と説得するシーンが続きますからほとんどマラソンみたいで」

今井さん「マラソンといえば、笹本さん結構運動されるんですよね」
笹本さん「そうですね。水泳とかテニスとか」
浅野さん「テニスするの?」
笹本さん「えぇ、(学校で)テニス部だったので」
浅野さん「僕もテニスするんだよ」
笹本さん「硬式ですか」
浅野さん「そうだよ」
笹本さん「じゃぁ今度軽井沢で
伊礼さん「なぜ軽井沢(笑)」

笹本さん「そういえば稽古中は夜マラソンしていたんですよ。
 走りながら台詞をしゃべるという・・・
伊礼さん「そんなんやってたから、
 稽古来て、疲れてたんじゃないの?」
笹本さん「そうかも(笑)」

●日々の変化

浅野さん「玲奈ちゃんの芝居は日々違う。いい意味で毎日違う。
 だから日によって距離が違って、『顔遠いっ!』という日もある(笑)」
笹本さん「(撃沈)」
伊礼さん「ダメじゃん」
浅野さん「いや照明ぎりぎりに立ってるから大丈夫ではあるんだけど、むちゃくちゃ近い日もあるね」

今井さん「そういえば台詞って皆さん噛んだりします?」
伊礼さん「僕は楽屋でむちゃくちゃ喋って喋り疲れたぐらいがいい按配で(笑)。
 で出てきて噛んでもあまり気にしない」
笹本さん「気にしなよ(笑)」

今井さん「そういえばその話で『日常生活で噛むとか当たり前なんだから、芝居上で誰も一度も噛まないのはかえって気持ち悪い』っていわれたお客様がいらして印象的でした」
一同「へぇ」

●ミュージカルとストレート

今井さん「ミュージカル組のお2人で、ミュージカルでの歌と台詞での切り替えとかってどうされてます?」
笹本さん「あまり意識しないですね。全編歌の『レミゼ』とかだと『違う、それは違う』とか自然に歌いだしちゃいますが」
伊礼さん「(拍手)」
笹本さん「え、その拍手はなに?」
伊礼さん「え、もっと歌ってほしいという拍手(笑)」

今井さん「そういえば皆さん、役としては何人が多いですか。私の場合は、外国人か殿様なんですけど(笑)」
浅野さん「基本的に日本人です。和物の顔なので」
伊礼さん「玲奈ちゃんと2人は外国人役多いよね」
笹本さん「そうですね。日本人役数えるほどしかないです。
 今年ずっとフランス人です(大笑)」

・・・「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ、そして「ジャンヌ」のジャンヌ・ダルクですから確かにフランス人役だけですね・・・

笹本さん「今回は日本語の勉強になりました。
 台本いただいて読むとき、広辞苑片手に読みましたから。普段どれだけ日本語を話していないんだろうと思って」
伊礼くん「僕も台本いただいたとき、電子辞書片手に読みました。で、稽古行ったら読み方違ってて(笑)。だって『良人』って書いてあって『おっと』って読めませんよ(苦笑)」


・・・全般的にまとまりこそなかったけれど(主にIR氏ゆえ・・・笑)、
興味深い話がたくさん聞けて面白かったです。
思い出したら追記しますー。

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『ジャンヌ』(7)

兵庫(西宮)公演突入の前に、原作戯曲を読み直しています。

観劇中分からなかったり、分からなくなっていたことが浮かび上がってきて、なかなか面白いです。

で、そういう話になるということは当然ネタバレです。




●エピローグは全員集合ではない
第七場、エピローグにはジャンヌに当時関わった人々が皆出てきている・・・と思っていましたが、実は二人欠けています。

第二場のシーンに登場した、ジル・ド・レイと侍従長の二人。
とはいえ、侍従長はエピローグシーンでは2役のもう1役、それも重要な”死刑執行人”として登場しますので、役者(小林勝也さん)としては登場しています。
ところが、ジル・ド・レイは影も形もありません。

エピローグのシーンの位置づけが、「ジャンヌと関わり、ジャンヌによって大なり小なり人生を変えられた人が、自らの25年を通して、ジャンヌの存在の意味を振り返る」シーンですから、ジル・ド・レイはこの作品上においては「ジャンヌによって人生を変えなかった人」なのかなと。

ジャンヌは第二場で、大司教に対して無礼であるとジル・ド・レイを叱っていますが、その前、大司教からの忠告に対して「毒を食らわば皿まで」と茶化していますし、大司教からも「笑うべき時と祈るべき時をわきまえなければ、やがて縛り首に処せられるだろう」と”予言”されているわけです。

・・・と思って読み返してみると、実はジル・ド・レイは「十一年後、教会に反抗し、恐るべき残虐行為に快楽を求めようとした咎で、絞首刑に処せられた」という記述があって、あぁなるほどと。

ジャンヌに関わることによって、自分の人生を変えることも、変わることもなかったから、という一面ともう一面、神に唾吐く者がこの場にいられるわけがないということなのでしょう。

●火あぶりとは
舞台を何回も見て、原作も何度も読んで、それでも分からない「火あぶり」の話を。

第四場、司教コーションと伯爵ウォリックの会話の中で、司教は「教会は火あぶりなどしない」と言及しています。その後で「頑迷な異端者を破門し、俗世間の手に委ねることはある」という発言をしていますので、実質的には「火あぶりにする余地はある」と伯爵は勘違いするのですね。

が実際、第六場の宗教裁判のシーンでは「宗教裁判で異端を取り下げれば、その身に対して手を出す者は神への反逆者だ」と言っています。司教はこのことをわざわざ言わなかったのか、自明だと思ったのか・・・

伯爵にとっての誤算とは「宗教裁判という形で神を利用した者は、神に罰せられる」ことを信ずるほどにはキリスト教信者ではなかったことなのだろうなと。

第四場で不思議なのは、司教が従軍神父のストガンバーに対して「己の国を聖なるカトリックの上に置くなら、あの女とともに火あぶりを覚悟せよ」と叱責しているところ。

直前に司教は「教会は火あぶりはしない」と言っているのに「あの女と共に火あぶり」と言っている矛盾。
単純な「感情の昂ぶり」と見るか、それとも意味があるのか、いまだ分からずにいます。

●女としてでないジャンヌ
第一場で何気なく領主が言われる言葉「兵士の中にいる女がどういう奴か、おれはよく知っている」そしてそれに応える形でのポリーの「あの娘を女として見る兵士は一人もいない」・・・これ、最初何の意味か理解できなかったのですが・・・。

ジャンヌの異端の罪として上げられた「男装」。そしてこの男装をなぜ止めないかの理由の一つとしてジャンヌが挙げているのが「教会の手に委ねられたはずなのに、イギリス軍の兵士の中に閉じ込められている」ということ。

この場で女の服装をすればどうなるか・・・を考えたときに初めて第一場の領主とポリーの言葉の意味が理解できたのでした。
鈍すぎますね。

●たまには小ネタのように
第一場、ジャンヌが領主を説得して、ついに馬と鎧と兵隊を手に入れるシーン。
シャンパーニュ一の雌鳥が卵を産まず、領主はしびれを切らし賄方を責め立てるわけですが、ジャンヌをその場にとどめず、シノンへ赴くことを決断した後、なぜか雌鳥が山のように卵を産み出し、「これこそが奇蹟だ!」ということになるのですが・・・

とある日、卵の1つが机から落ち、弾んだのです(つまるところゴムボールだったわけです)

そんな時、賄方の酒向さんが言った一言。

「卵が割れていません!殿様、これは奇蹟です!」

リピーターたっぷりの3階A列(最前列)からも大笑いが起きる黄金のアドリブ。
このアドリブ、それから3日間毎日恒例になったのでした(笑)。

●神の王国
「王様以外の何者も私に指図できない」という領主に対して、「私の王様は天にましますお方(=神様)ですから」というジャンヌのクリーンヒットが決まる第一場。

「キリストの国には王は一人(=キリスト)」であり、国王は神の信託の元に国を治めるに過ぎない・・・という、神学的には「まったく正当」であることを、無意識のまま言っていたジャンヌ。

宗教裁判の依頼に対し、「自らの身を危険にさらすような真似」をコーションがなぜしたか。

ジャンヌが「教会の存在を無意識のまま無視している」こと以外は”すべて合っている”からの焦りじゃないかと思う。
なにしろ大司教でさえ「自分の考えがぐらついてくる」とまで言う人なわけで。

●戴冠式の違和感
原作戯曲と舞台上演台本では当然、かなり抜粋されているわけですが、かなりはっきり台詞が抜かれているのが第五場、戴冠式のシーン。

ジャンヌがデュノアに対して「あまり手荒な真似はしないわよね」と言っているシーンがかなり違和感だったのですが、これ、原作では直前でデュノアは実は血気盛んに戦おうとしているんです。「これからもイギリスを打ち負かしてやる」と。

ここのシーン、舞台版ではデュノアは非戦派(今は戦うべきときではない、との見解)で、ジャンヌとライールは好戦派。
ところが戯曲的には実はデュノアも好戦派なので不思議なシーンになっちゃってます。

で、ジャンヌはここで「パリを取りましょう!」と言って孤立するのですが、戯曲には「首都なくして、あなたの王冠に何の価値がありますか」という、とても分かりやすい台詞があって、なんでこれ外しちゃったかな・・・

「神は人間の奴隷ではなく、乙女の奴隷でもない。神は君の敵に対しても公平なのだ」というデュノアの言葉は、ジャンヌのはやる気持ちを抑えるために有用な台詞だったろうし。

印象的だったのは、身代金の話を受けたジャンヌは、原作では誇り高く、それ(身代金)が名誉であるかのような印象を受けるのですが、舞台版ではすこぶる衝撃を受け、より神に帰依するしかない、と思ったかのように見えて。

そういえば、「私にはもっといいお友達がいます」と言っていたジャンヌ。神様を”お友達”と呼んだのは果たして異端ではないのでしょうか(苦笑)。

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『ジャンヌ』(7)

2013.9.21(Sat.) 13:00~16:15
2013.9.22(Sun.) 13:00~16:15
2013.9.23(Mon.) 13:00~16:15

いずれも世田谷パブリックシアター 3階A列

「ジャンヌ」東京公演、私的なラスト3回はまさかの3日連続観劇。
3階A列センターブロックを下手→上手→中央と移動しましたが、トークショーで演出助手の方が言われていたとおり、3階は玲奈ジャンヌの神への祈りがまっすぐ来るので、とってもお得感のある席です。

東京公演後半は、特に笹本玲奈ジャンヌへの憑依度が上がっていて、他の登場人物が呑まれていく様子がありあり。
特に一番印象的だった公演は22日の公演。とにかくあれは”奇跡”以外の何物でもなく・・・
良い意味で狂ってて、理屈じゃなく周囲が引っ張られていました。

特にシャルル王がその気になるまでの心の動きが説得力ありすぎて、シャルル王からジャンヌに握手を求めに行くようになっているんですよね、はっきりと。「自分に勇気を付けてくれてありがとう」という気持ちがダイレクトに伝わってきました。

それに比べると23日は多少正気が戻ってしまった感じで、その分、危なっかしくなってしまって、1場で領主様にシノンへの派遣を認めてもらった後、ジャンヌが喜びすぎて、22日の公演ではジャンプしていてそこまでは良かったのですが、23日の公演では走り出そうとしてまさかのマジゴケ・・・滑った感じでしたが。

●デュノアが本気になった時
正確にはデュノアがジャンヌを認めたのがいつなのか・・・について今まで分かっていなかったのですが、3場で小姓がジャンヌの存在に接して本気になったのを見て、デュノアは本気になるのですね。

デュノアはこのシーンでジャンヌを試している。
「軍人としてではなく聖者として迎える」わけで「私に指図は許さぬ」と。

デュノアは優れた指揮官であり、「西風さえ吹けば」の一点を除いては、完璧に状況を把握し、打てる手を打っていた。でもその西風は一向に吹かず、それ故、小姓から見れば「指揮官(デュノア)は本気になってくれない、西風が吹くことだけを願っている」という点で半ば失望もしているように見えて。

そこに突然現れたジャンヌの真っ直ぐな意見。
「臆病風から救い出してあげる」というジャンヌの言葉に対するデュノアの答えは、実は5場とも一貫していて、「臆病風を放り投げればいささか好ましくない指揮官になってしまう」という3場のデュノアと、5場の「自分が動けばどれだけの兵を失うかを考える」は理知的な指揮官として好ましいものなのかもしれません。

デュノアが名指揮官であることはイギリス側にも認められていて、でもその実、ジャンヌ的な「勇気」が加われば、もっと与しがたい敵になると思われていたのではないかと・・・

何となくですが、デュノアもジャンヌの戦いぶりに惹かれながらも、危険さは感じずにいられず、だからといってジャンヌを全否定するつもりはなくてデュノアも、ジャンヌ的なものが自分に足りないことを認めてはいるように思えたのでした。

●勇気という言葉
この作品の中で「勇気」という言葉を最も発するのはジャンヌですが、この「勇気」という言葉を発する登場人物はあと2人いて、そのうち1人が実は大司教なのですね。7場のエピローグでジャンヌに対して、「お前に祝福を与える勇気はないが、お前の祝福には浴したい」という、世事的にはとっても都合の良い(笑)ことをおっしゃっておられますが、この言葉は「ジャンヌたる聖者が、生きて認められうるか」というテーマに対する一つのヒントでもあるわけですよね。

ジャンヌがジャンヌたる部分は「自分が成し遂げることへのこだわりがない」ことだと思うのですね(前も書きましたが)。

「自分の仕事ではなく神様の仕事を考えなければならない」ということに対して、ジャンヌは自ら解説として「自分の仕事のことしか考えないのは、自分の身体のことしか考えないのと同じ」と別の場面で言っています。

「神様の仕事」とはつまり「自分の精神」のことなのですよね。
ジャンヌは火あぶりにされることに対して、最終的には全く頓着をしていない。これはいみじくもコーション司教が「身体が火あぶりにされても苦しむのは一瞬」と指摘し、「私が思うのは彼女の魂の救済である」と言っていることともリンクします。

ジャンヌは自分の身体は焼かれても精神は神の元に行けたから、それはそもそも、教会が恩に着せる(宗教裁判で慈悲を示す)ことをしなくとも済んだ話で・・・それはコーションの無力感ともどことなく繋がっているような気がします。

そして「勇気」という言葉をもう1人言っている人がいて。それが敵にあたるイギリスのウォリック伯爵。
ジャンヌが火刑台で焼かれる光景を見て、半狂乱になっている従軍神父・ストガンバーに対してかける言葉。

「あれを見たのか! あれを見る勇気がないのであれば、私のようにここにじっとしていればいいのだ

これは何種類かの意味に取れますが、普通に解釈すると「あれ(”残酷”のことかと)を見る勇気が自分にはない」ということなのでしょう。考えてみれば、コーションに対して宗教裁判を依頼し、それがイギリスの差し金によるものと見せないように仕組んだこと、そして何より「髪一本に至るまで焼き尽くせ」という依頼を死刑執行長にしていたという行為・・・相当な臆病者というのが見て取れます。そう見てくると、偉そうにしている様子が虚勢にまで見えてしまうのが不思議です。

●プロセスと結果の関係
7場では、ジャンヌの宗教裁判と復権裁判を並べて修道士マルタンが興味深いことを言っています。

「宗教裁判は、極めて真っ当な手続きによって行われ、最後の結論である『火あぶり』だけが間違っていた。
 復権裁判は、恥知らずな偽証を初めとする多数の虚偽があったのにもかかわらず、最後の結論である『名誉回復』は合っていた。神の思いは誠に図りがたいものがある」と。

簡単に言ってしまうと、宗教裁判は「プロセス正解、結果不正解」、復権裁判は「プロセス不正解、結果正解」なのですね。

それを見ているとジャンヌの肉体的な死は政治的に必要だっただけでなく、宗教的にも必要だったのかもしれないのなと。(コーションもストガンバーに対して、「いつの世にも犠牲は必要と申すか」と聞いているのがそれを示しているかと。)

そう言えば4場で、「魔女と異端者、何が違いますか!」と言ったストガンバーに対して「無知」とコーションが言っていますが、「異端者」は「キリストを信じているが、信仰の仕方が間違っている」のに対して「魔女」は「キリストを信じていない」人。
だから「キリストの旗の下に戦ったジャンヌは魔女ではありえず、異端者である可能性だけが残る」わけですね。

「苦しむのは、無知なるものの役目」と、宗教裁判の後、査問官(ル・メートル)は言っています。
ストガンバーは無知故に苦しみ続けていますが、ジャンヌの苦しみは6場の宗教裁判に集中しています。
ここでの「無知」とは「自分がなぜ裁かれなければならないのか」は自分で分かっていなかったからなのでしょう。

自分が貴族や王族から愛されない理由も分からない、自分が裁かれる理由も分からない。
でも幸いジャンヌは「事の本質だけは掴んでいた」

いかなる責めを受けようとも、魂が昇華し天に召され、神様に迎え入れられれば、それが「ジャンヌが生きた意味」である、ということを。

この作品はジャンヌ・ダルクを描いた作品としてはかなり異質ですが、物語として神格化されることがほとんどなジャンヌは、それゆえに実存を疑われる存在であるわけで。

「ジャンヌ・ダルクは生きていた」ことを前面に出してジャンヌが果たした意味を見せる、ということがもう少し表面に出ていれば、また違った受け入れられ方をしたのではないかと思います、舞台作品として。

サブタイトルとして「ノーベル文学賞作家が暴く、聖女ジャンヌ・ダルクの真実」とありますが、この作品で見せているのはむしろ、「ノーベル文学賞作家が暴く、聖女ジャンヌ・ダルクの意味」ではないかと思えてなりません。

東京楽は拝見できませんが、西宮2回・札幌1回とまだ見る機会が残っています。
まだ補充できていないピースを、埋めに行きたいものです。

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『ジャンヌ』(6)

2013.9.18(Wed.) 13:00~17:00
世田谷パブリックシアター 1階B列10番台(下手側)

「ジャンヌ」念願の最前列は、アフタートークショー付きの回。

ちょうど下手側階段の目の前にあたる場所だったので(席番伏せてる意味なし)、ストガンバーが狂って走り去るのも、マルタンが追っかけるのも、王室に入ろうとするジャンヌが立つのも、司教がジャンヌに慰められるのも、老年のデュノアがジャンヌに兜を脱ぐのも、すべて目の前で起こっています。

3日振りに見たこの作品。今まではジャンヌが一人突っ走る印象がありましたが、段々とジャンヌに皆が巻き込まれる様子が強くなっているように思います。ジャンヌの神々しさが増すと同時に、その引力に引っ張られないようにもがく周囲の人々、といった図式が強く見えるようになってきて、より深みが増してきた気がします。

ネタバレあります、回れ右お願いします




この日印象的だったシーンが、5場、ランスの大聖堂でシャルルが即位した後のシーン。

このシーンで孤立無援になったジャンヌが、自分の最大の理解者であろうデュノアに問いかけるシーンがあります。

「あなたが私をどう思っているか、皆さんに言ってみてちょうだい」

ジャンヌって、「女性」であることを頑なに拒否していた人なわけで、「女の欲しがるものなんか要らない」と言っていたわけですが、どうしてどうして、ここでジャンヌはデュノアに、自分に対する特別な気持ちを「利用」しようとしているように見えるのです。

端的に言ってしまえば、「あなたは私に惚れているのよね、だから私を助けて頂戴」というような気持ちが。

そのジャンヌの気持ちを知ってか知らずか、デュノアはジャンヌの期待に応えない。

このシーン、最初見た時からずっと違和感があって。孤立していたジャンヌにとって、デュノアがジャンヌの最大の理解者であって欲しい、と一観客として思ってはいたけれども、どんな経緯をたどってか、現在の演出ではデュノアがジャンヌに対して特別な感情を少なくとも表に出すことはなくて。

この作品でのジャンヌは、他の作品のジャンヌに比べて、とても普通っぽい(この日のアフタートークでも語られていましたが)のが特徴に挙げられます。

他の作品のジャンヌって、いわゆる「神々しい」「奇跡の」存在なわけですが、「聖女ジョウン」の「ジャンヌ」は羊飼いの娘が、そのまま戦場に向かったピュアな面を見せていて、それが魅力でもあり特徴でもあり、異質でもあり。

少女ぽい面を残しているジャンヌが、自ら「女」を拒否しているのにも関わらず、このシーンでは「女」であることを半ば利用しようとしている気がして、違和感を感じていました。

デュノアが何故このシーンで、ジャンヌの気持ちを薄々感じつつも、その期待に一切応えないのか気になっていて。
「ことここに及び『女』であることを利用する」ことに自ら応えることは、「女」を表に出してこなかったからこそ惹かれて来たジャンヌの行動として、少なくともデュノアにとっては許容出来る部分ではなかったように感じて。

デュノアにとっては自分の立場を危うくするところから逃げたかった面も、もちろんありはするでしょうけど。



他の方の感想を読ませていただいておっ、と思ったのがジャンヌに対する教会のスタンスの話。

宗教裁判をコーション司教に依頼したウォリック伯爵は「ジャンヌを救おうとする宗教的願望は私にはない」と言いますが、前回も書きましたが、教会にとってジャンヌは「教会を無視して神と直接繋がろうとする」異端者。
だから本来はイギリスがジャンヌを排除したいように、教会もジャンヌを排除したい・・・という理解をしていました。

ところが、宗教裁判においての目的は「ジャンヌの魂の救済」であり、異端を破棄するよう促すわけです。
ここが見ていて分からなかったのですが、その方曰くキーワードは修道士マルタンが言う「慈悲を持って行わなければならない」という言葉。

つまるところ、教会がジャンヌを「慈悲を持って救えば」、皆、教会を尊敬するであろう、という意味合いからの宗教裁判なのですね。



5場のシーンでは、「実は嫌いというわけでもないのだが」と言うジル・ド・レイを筆頭に、ジャンヌが感じるほどの悪意を、それほどまでに登場人物が放っているわけでもないのが、見る度にちょっと違和感。

ジャンヌはこのシーンで「あなたがたが放つ憎しみを、民衆たちが癒してくれる」といった言葉を吐き、自分の「殻」に籠もるわけですが、え、あれでジャンヌは憎しみを感じるの?というのがちょっと不思議なのです。

考えてみれば、ジャンヌは自分の言葉で皆を動かしてきた人ですし、相手の気持ちを上手いことを掬い上げることには実は長けているわけで。

1場の領主様とのシーンも「私にあれこれ命令して良いのは神様だけ」と言っておきながら、領主様が自分のコントロール下に入ったとみるや、不要な抵抗はしていなくて。領主から「お前に命令する」と言われても、それが自分の望むこと(=神の望むこと)とずれていない限りにおいては従順だったりするわけです。

ジャンヌって、自分の思うまま願うまま、言いたい放題やりたい放題という印象が強かったので、5場でそれほどまでにジャンヌが傷つくことが、違和感があって。

一般的な「ジャンヌ」の物語では、ジャンヌが王室内に入っていることを、それはそれは忌み嫌う魑魅魍魎な空間の中で、ジャンヌはいるわけですが、今回の「ジャンヌ」では確かに自分の思うとおりに動いてくれないとはいっても、それはジャンヌに対しる嫌がらせではない。

確かにフランスに対する「反逆者」(ここでいう「反逆者」はウォリック伯爵が補足説明を行った「対象に対して自分の全てを捧げない者)ではあったからこそ、ジャンヌにしてみれば「王室にはフランスの味方がいると思っていた」という思いになるわけですが。

この5場で大司教から発せられる「見放す」という言葉が、実はこの「ジャンヌ」の作品の肝なのかなと。

「見捨てる」ではなく「見放す」

この「ジャンヌ」に登場するフランスの人々は、ジャンヌに対して「成功に対する怨嗟」はそれほどまでにないのが意外で。皮肉なことに、実はデュノアが最もそれが強いように思います。自らの立場から考えて、ジャンヌを救えなかった人々たちが、エピローグでジャンヌに対して懺悔をする。

でも、ジャンヌはそれに対して憎しみを持ってもいなくて、むしろその人の立場に対する最大限の敬意を持って接し、その上自分の足りなかった部分を吐露してもいる(私が男だったらあなたたちをそんなに困らせなかっただろう、でも私は天上のことしか頭になかった、だからあなたたちを困らせるしかなかった・・・というくだり)。

”見捨てたくはないが、見放さざるを得ない”・・・それがジャンヌの存在に対する、最大公約数的な周囲の反応だったのかなと、そう感じられてなりません。



余談ですが、この戯曲の作者であるバーナード・ショーは、序文において、自分の戯曲に対する批評に対して、「神さまは言っていたわ、あなたたちはみんなバカだって!」と言わんがばかりの反応を示していたりします。
ショーの立ち位置とジャンヌの立ち位置は、そういう自尊心の部分において、似てるような気が、ちょっとしました。

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劇団HOBO『犬、だれる』(2)

2013.9.16(Mon.) 14:00~16:00
新宿サンモールスタジオ B列1桁番台

劇団HOBO第5回公演、千秋楽です。

最後のご挨拶で座長のおかやまはじめさんが仰っていたとおり、「台風の日に台風の作品」という按配で、補助席も通路までははみ出さず、それでもほぼ満員での千秋楽。

今回は結局実質2回の観劇で、初日・楽だけ見たようなものですが、両日とも満員で何より。5分だけ拝見した金曜ソワレは通路まで補助席で埋まり、他日もソワレは全般的に盛況だったようなので、新宿という土地柄と、19時30分という設定、その上作品としての心地よさ、それらが合わさってできたものではないかと思います。

千秋楽を迎えましたし、がっつりネタバレ込みモードで(というか最近いっつもですけどねネタバレ)

・・・

舞台は沖縄の南の最果ての島・南神無島(みなみかんなきじま)。
登場人物は8人(男性5人、女性3人)。

その中で地元の方と思われるのは2人だけで、島の観光課課員・時男(本間剛さん)と、読みは「おおや」だけど大家じゃない、大谷(林和義さん)。
仕事で来ているのは派出所勤務の巡査・前田(おかやまはじめさん)

そして、それ以外の5人は全ていわば「わけあり」でこの島に流れてきた人たち。

事実婚で移住組が秋平(有川マコトさん)と正子(松本紀保さん)

若い頃に同じく移住してきたけど相手の男が3ヶ月で音を上げて帰っていって取り残された須賀子(高橋由美子さん)。

ツアーコンダクターの仕事で滞在(というよりほとんど移住)の照之(古川悦史さん)。須賀子ママ(スナックのママさんです)が惚れてます。

で唯一のお客さんが正子の妹、直子(小林さやかさん)。

前回、有川さん演じる秋平が「喧嘩農家」から繋がってると書きましたが、はじめさんの巡査も「ハロルコ」から繋がっていますし、古川さんの照之が後で自分の過去について語ったときの”(ホームレスとかの)ルポライター”ってのも前作「ナイアガラ」から来てるんですよね。この辺に気づいた方からはちょいちょい笑いが起こっていました。

観光資源のもずくをゆるキャラにした「もんずくん」の着ぐるみ費用(相場の100~150万より安い50万)で請け負うという省吾さん(笑/中の人は今回欠席)に50万を持ち逃げされた時男。

時男の苦境を救うべく須賀子ママが着ぐるみ作り、そして秋平さんが着て、毎日3回のフェリー入出港時にお出迎えするということとなり・・・(島の臨時職員扱いで、給料も出る)

都会から来た人にとっては「ゆったり時が流れる素敵な空間」であっても、そこに住む人にとっては「平凡な日常」でしかない。直子から東京の話を聞いて東京(実際には浦和)に憧れる時男にしてみても、都会人の直子に言わせれば、東京だって「お金のない人にはつまらない街」と言う。お互い、ないものねだりなんですよね。

今回、嬉しかったのは女性が3人いらっしゃったこと。普段は紅一点で由美子さんしかいないので、女性間の関係というものがHOBOでは描けなかったわけですが、今回、まぁ物の見事に気っ風のいい3人が揃い踏み。それぞれの女性の(役の)男性観の違いが面白かったなぁと。

一番地に足が付いてたのが秋平と正子の組合せ。秋平が着ぐるみでやらかした話を、正子に言い出せなかったときの話にしたところで、それほど深刻じゃなかったですし、過去の「農業の失敗」の話も、秋平は正子に言ってる。ある程度信頼関係が出来上がってる。

時男と直子は「これから関係が進展するかも」の関係ですが、時男が前向きに「この島でやっていく」と宣言したことで、むしろ物理的な距離が離れる分、心理的な距離は近くなった気がします。

で、もう1つのカップルが須賀子と照之なんですが・・・まぁ何というか、こういう瀬戸際キャラやらせると、どうして光りまくりますか高橋由美子さまは・・・。何というか、火が付くとグーの音も出ないほど追い詰める、その技は芸術的ですらあります。

男から見ると、細くても洞窟でも、逃げ道がちょっとだけ欲しいのが本音ですが(笑)。
なんですか、これどこまで実話ですか(爆)。

印象的だったのは、須賀子ママの過去。実は大谷さんと結婚していて、須賀子ママが不倫して別れた。でも手切れ金としてスナックもらった。「罵倒された方がマシ」と吐露していますが、それゆえに、照之がこの島に来た理由と、知らなかった過去を知ったとき(過去のことそのものではなく、過去のことを話してもらえていなかったこと)の時の「自首なんて許さない、自分だけ楽になるなんて許せない、逃げて逃げて苦しめ」と言った時の迫力ときたら・・・なんかもう本当に病んでるなと。

大谷さんにとっては意識するしないかに関わらず、須賀子ママにとっては、「自分のせいで離婚するのに、自分の働き場まで相手から提供してもらう」苦しみから、逃げだそうにも逃げ出せない。
大谷さんは須賀子さんに無意識のうちに復讐してるわけで。
だからこそ須賀子さんにしても、自分を裏切った照之のことを許せはしない・・・

なんか「復讐の輪廻」みたいに見えて、そんなのを表に出すことなく日常を送る大谷さんと須賀子さん見ると、うわぁぁぁと思ったりもする(苦笑)。いやはや、人間って悪魔を飼っているよねぇ・・・

温かい南の島で繰り広げられる、内実の非温かさ。
日常を送ることは、現実と向き合いながら、現実から逃げることとも思えて。

「何事もなければあと40年生きるんだよねぇ」という須賀子さんの台詞は、ものすごく刺さりましたです。
同い年って時に残酷です(苦笑)

そうそう、須賀子ママの名台詞

「馬鹿な男は可愛いけど、ダメな男はクズさ」

は名言過ぎてこれも刺さりましたわ-(苦笑)。

・・・

そんな劇団HOBO、次回公演は来年2014年5月20日(火)~2014年5月25日(日)、下北沢駅前劇場にて。
仮タイトルが「猫、なでる」です(笑)

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『ジャンヌ』(5)

2013.9.14(Sat.) 13:00~16:15
世田谷パブリックシアター 3階A列20番台(センターブロック)

5日ぶり4回目です。3階A列は舞台からそう遠くないし割安でお勧めです。

内容編です。初っぱなからネタバレ全開で参りますのでご注意ください。




なお、宗教的な面については純宗教的な側面としては間違っているところも多々あるとは思いますが、あくまでこの作品で読み込んだ事項を、可能な範囲で個人的な理解をした結果であることをご寛容ください。




●作者の立ち位置
今回の「ジャンヌ」の原作である「聖女ジョウン」は、バーナード・ショーの戯曲で、この作品で氏はノーベル文学賞を受賞しています。最近めっきり言われなくなった(そしてタイトルロールの聖女様が最後まで覚えられなかった)サブタイトル「ノーベル文学賞作家が暴く、聖女ジャンヌ・ダルクの真実」はここから来ています。

バーナード・ショーはアイルランド人。この作品でイギリスがかなり悪者的に描かれ、フランスが好意的に描かれているのは、アイルランドとイギリスがずっとドンパチやってて、イギリスとフランスが百年戦争やってることから来ていて・・・つまり、「敵の敵は味方」みたいな状態になっています。

この作品が描かれた1920年、これはジャンヌが聖女に列せられたことがきっかけですが、時は第一次世界大戦の時。
大戦の当事国であるイギリスに向けて、アイルランド人であるショーが、このタイミングにフランスの英雄/ジャンヌ・ダルクをわざわざ描いているのが嫌らしいなぁと。

●似て非なるもの
演出の鵜山さんは前演出作の「二都物語」で、「2つのもの」という観点でいくつかの視点を提示されていたことがあります。対立するものの関係性から本質を浮かび上がらせる手法という感じがしました。

今回の「ジャンヌ」でも重要な「2つのもの」が2組あります。

1つは「神」と「教会」。

これはイコールではない、というのがジャンヌの犯したとされる”宗教上の罪”に大きく関わってきます。

ジャンヌは「神の啓示を直接受けて」行動します。それが当たり前であるかのように。
が、教会にとってはそれは自らの立場を危うくする以外の何物でもないのですね。

「悪と直接対峙する教会は、教会の名において神の意向を推し量る」と大司教が言っています。

ジャンヌは神と直接やりとりしている、それが真実なら教会が要らなくなってしまいます。
教会の存在意義、大司教、司教、神学者もろもろ、宗教家の存在意義が消滅してしまいます。

ジャンヌは自分が意識しないままに、現世における宗教家をみんな敵にしているとも言るかもしれません。

「自らの立場を教会の上に置くのであれば、教会はお前を見放すだろう」とも大司教は言いますが、確かに「教会は要らない」と言わんばかりの行動をしておきながら、教会に助けを求めるジャンヌというのも不思議なもので、デュノアが呆れるのも無理はありません(苦笑)。

地獄から1日だけ舞い戻る元兵士に「地獄には元聖職者も元貴族もいますよ」と言わせている辺り意味深です(笑)。

・・

もう1つは「国王」と「領主」

これはイコールではない、というのがイングランド(イギリス)が、ジャンヌを問題視した点に関わってきます。

「人は2人の主人に仕えることはできない」。

そしてジャンヌにとっての主人は神。
そして国王は神の神託のもと、国家の単位を統治する。

この点において宗教家であるコーションは「神学的には全く正当」と言っているわけですが、ウォリックはそうはいかない。

そうなれば領主の立場はどうなるのか。
国王はそれでいいとしても、領主とは「領地」を持ってこそ、存在意義を持つ。
領地を持たず、国王から委任されて領主となるのであれば、その存在はそもそも根拠を持たないわけで、いつその場が崩れるともしれない。

1幕4場、前者の立場でコーション、後者の立場でウォリックが会談を行ない、ジャンヌを宗教裁判にかけることを依頼するシーンは、こういったお互いの問題意識のもとに存立しています。

そして前者を「プロテスタンディズム」、後者を「ナショナリズム」と呼んでいます。

ここは原作についても評価が分かれるところのようなのですが、ショーがジャンヌを評価しているところは、どうもここに立脚しているようで、序文で「ジャンヌは最初のプロテスタントだった」「フランスにとってのナショナリストのはしり」といった表現をしていてます。

そして、前者については「カトリック教会の存在基盤を揺るがしたプロテスタントを、カトリック教会が聖者として認めたことに大きな意義がある」と評価していたりします。

後者についてはフランス革命につながる「国家」という概念に火を付けたのがジャンヌだったと。

ウォリックがイングランド枢機卿が言う「フランス『国』」という発言に敏感に反応しているのは、「領地」を権力の根拠にしている「領主」の立場から。「領主」の立場を危うくする「国」という概念を認識させるジャンヌは危険な存在だから。
ゆえに、”髪一本、指一本に至る全てを焼き尽くす”よう命じたわけで。

ただ、「宗教的には全く無実」とまで審問官が言うジャンヌを、「男装している」という理由だけで宗教裁判で有罪、終身禁固刑。それに背いたジャンヌを破門して俗人の世界に引きずり下ろす・・・のはいかにも乱暴な理由付けで。

教会としては「教会をないがしろにすることが異端」と言いたいのが本音なのでしょうが、表向きそうは言えないので、別の理由付けをする。
イギリスが主体になってジャンヌを処刑するとフランスのナショナリズムに火が付くので形としては教会が決めたことにする。

その「本質からずれた部分」が、何よりジャンヌが処刑されたことによる効果なのかと。

要はどっちも逃げてるわけで、終身禁固刑より火あぶりを選び、火刑台から天に召された、ある意味の「正義」を体現したジャンヌに対して、責めた側はいささか以上の、卑怯のそしりを逃れないわけで。

それが「政治的な必要性はあったが、政治的必要は時に政治的失敗を意味する」とウォリックが語っている部分ですね。

それにしても、「ごめん。必要があって亡きものにしちゃったけど、やっぱやるんじゃなかったわ」って言ってるって凄いシーンだ(笑)。

憎むことを知らないジャンヌでもそりゃ怒るよ(爆)。
ここ、先日見た時はウォリックから言われた言葉を、それはそれは棒読みで返してたジャンヌが面白かったです。

・・・

もう一点として提示するなら「ジャンヌ」と「ジャンヌたるもの」の間には大きな違いがあるかなと。

ジャンヌの身体を焼き尽くすことが出来ても、ジャンヌの精神はそもそも無実なのだから焼かれる理由がない。
ジャンヌの精神、つまり「ジャンヌたるもの」が残ることこそ、実は教会や貴族にとって危険きわまりないものだったと。
だからこそ一つ残らず焼き尽くしたかった(少なくとも貴族は)。

でも、ジャンヌの心臓は焼け残ったし、ジャンヌの精神は残った・・・からこそ、ショーが序文で言う「ナポレオンが体現しえたナショナリズムの実現の露払いとしてのジャンヌ」がそれほどまでにフランス「国」の英雄として語り継がれているのだと。

・・・

5場においてランスの大聖堂でのシャルル国王の戴冠式の後、ジャンヌに対して周囲の人々がジャンヌを止めるシーンがあります。

ここでのやりとりで印象的だったのは、この言葉のやりとり。

ジャンヌ「兵士たちは鎧も着けられず、身代金も払うことができない。」それらの兵士が私を支えてくれるのだ、と。

デュノア「お前が自分がなすべきことを神に任せようとするならば、我々は必ず敗れるだろう。お前は鎧を剥がされ、ジャンヌを捕らえた運の良いイギリス兵は、ウォリック伯爵から1万6千ポンドの身代金を受け取ることになるだろう。だが鎧を剥がされ、ジャンヌが不死身ではないということが知られれば、その瞬間、お前はわが軍の一兵卒も動かす価値もなくなる」

・・・ジャンヌが暴走して敗れれば、「鎧も着けられず、身代金も払うことができない」存在になり、軍が助ける価値もなくなる。
そうなる前に、戦いから身を引き、田舎に帰るべきだ・・・と。

デュノアのジャンヌに対する思いは、原作を読んだときと舞台版では少し自分の中ではズレがあるのですが、舞台版で見るならば、ジャンヌに身代金の件を言い出そうとしなかったことにはデュノアのジャンヌに対する強い配慮を感じます。

知らないのなら、知らせたくはない。でも言い出さざるを得なかったことへの苦悩が、デュノアに感じられて強く印象に残ります。デュノアがジャンヌを「守れなかった」と最初に思った瞬間なのかと。

デュノアはジャンヌに対して、「聖女であることの意味」を強く感じている気がして。
デュノアにとって、自らを勇気づけるシンボルとしてのジャンヌはどうしても欲しかった。だからこそ、ジャンヌのカリスマ性がまだ光を放っているうちに、消えないうちに、そのシンボルを一線から退かせたかったように思えて。

それはジャンヌに対しての特別な感情もあったろうし、自分の立場を守るために必要なピースでもあったように思えて。
でも、ウォリック同様にデュノアも、ジャンヌを見誤っていた部分があったように思えて。

というのも、ジャンヌは最後、終身禁固刑を破棄させ、結果として自ら火刑台にかけられることを望む。

それによって得られる”効果”を最初から”計算して”やったものとは思えなくても、結果としてジャンヌは「自分が生き残って自分がなす」ことに対する執着はなかったのではと。ここがジャンヌ・ダルク的なものが男から現れなかった点なのかなと。

男という生き物は、かなりの部分、存在意義で生きている生き物だから、大なり小なり「自分が成し遂げたこと」に対するこだわりをもっている部分があるわけで、ジャンヌがその点において「男性的ではない」のかなと。

「自分のことだけを考えること」についてジャンヌがデュノアを叱責しているところもその辺りに立脚している気が。
ジャンヌはそれを意識してやった風じゃない(本人曰くは「神の思し召し」と言っていますが)のが神がかっているのでしょう。

ジャンヌの現世での最期に接して、「終わりではなく始まり」と言っているマルタンもそうですし、宗教裁判で裁く側だったコーションやジョンも、ジャンヌの存在意義について薄々気づいている風がある。分かっていなかった人も「得体の知れない何か」をジャンヌに感じたからこその危機感でしたでしょうし。

ジャンヌ「肉体的な最期」は、ジャンヌたるもの「精神的な始まり」でもあったのではないかと。

シャルルが「誰一人としてわかってはいなかった。何があの女にとって重大だったかということは」と後年語らせて、その上でエピローグで現世の関係なしにジャンヌと向き合えるようにせしめたことが面白いなと。

コーションが「異端者は死んでいた方がよいのだ」と言って笑いを誘いますが、つまるところジャンヌのような存在は自分に害が及ばない範囲において受け入れられうる、と言っているのが興味深いです。

ありていに言うと「他人事ならのんきに見ていられるが、いざ自分に火の粉がふりかかるとたまったもんじゃない」(笑)ということですね。

ラストが「ジャンヌと愉快な仲間たち」みたいになっていますが、現世ではジャンヌを糾弾せずにいられなかった立場の人もひっくるめて、「ジャンヌという存在は自分らにとって大きかったなぁ」という空気で終わるラストは、案外悪くないものです。

ジャンヌの偉業を言い立てるよりも、周囲の人たちのしょうもなさ-といっても立場からしてそうならざるを得ないのですが-と一緒に見せることで、「ジャンヌという存在の意味」をより分かりやすく見せている気がしました。

ジャンヌたるものとどう向き合うかを、一人一人に考えさせるかのような気がしました。

●そういえばプチポイント
地獄から来たりし元兵士さん、ここのところ歌が毎日変わっています(笑)。

●時には世俗のように
「あなたが私のただ一人の信者なの?」と元兵士さんが言われるシーンが好き。
言われてみたい(笑)

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劇団HOBO『犬、だれる』(1)

2013.9.10(Tue.) 19:30~21:20
新宿サンモールスタジオ(新宿御苑前)
A列1桁番台(下手側)※最前列

劇団HOBO第5回公演、初日です。

もう第5回、6年目。
劇団HOBOの作風を一言で表現してしまうと、

「人間って、しょうもないけど、愛おしい。」

かなって思う。

作品やテーマが違っても、刺々しい気持ちになって帰ったことはなくて、今回もそれは例外ではなくて。
都会の疲れたサラリーマンにはぴったりな作品です(←別に自分のことだけ言ってるつもりはないですw)

ただ、小劇場ということもあって特に前列(A列・B列)は椅子が小さいので、お尻がむちゃくちゃ痛くはなります。
後方席にご迷惑にならない程度にmyクッション持参が推奨です。

自分の目の前に由美子さん、小林さやかさんが座るシーンが合わせて複数回あって、あまりの近さにむちゃくちゃ緊張します(笑)。お綺麗ですわー。

この日は完売ということで、当日券も通路にびっしり出しての上演です。

今回は5作目にして初めての女性キャスト複数。つまり客演で女性が2人入られています。
松本紀保さんと小林さやかさん(青年座)。

去年の「ナイアガラ」も、劇団員の高橋由美子さんが本出演ではないまでも、日によってはゲスト出演していたため、作品として女性ゼロの公演は今までなく。基本は女性1人だったわけですが、今回初めての女性キャスト複数人。

そしてこの3人のバランスがとても良いです。

舞台は日本の南の、どこかの島。そこにそれぞれの経緯でやってきた女性お3方、そしてその女性たちを取り巻く男性たち。

・・・というか、女性1人の時でさえ、女性優位なHOBOなのですから(それは某番長がおるからですがw)、女性3人なら輪を掛けてそうなるのは目に見えているわけで・・・(笑)

・・・というわけでネタバレちょっとずつスタート島す。気になる方は回れ右で-。




配役のトップクレジットがHOBO2年ぶりの有川マコトさん。秋平役。
「喧嘩農家」の四男の役ですね。周囲が農業やってるのに唯一自分はやっていない、という設定の役でしたが、今回の作品での設定が「農業に失敗してこの島に流れてきた」というパラレルワールドになっていることに、客席の一部から笑いが。

秋平の内縁の奥さん・正子役が松本紀保さん。ご存知、川原和久さんの奥様ですね。(川原さんから初日祝いも来ておりました)

舞台で拝見するのは初めてで、登場シーンが女性陣で一番最初ですが、実は最初に登場されたときに小林さやかさん(この方も初めて拝見)とどちらなのか分からなくなった自分がいました。後で判明しますが、姉がこちら、そして妹役を小林さやかさんが演じられるので、なるほど似ていることも意味はあるのかと。

島に定住して旅行コーディネーターみたいなことをやっているのが古川悦史さん演じる照之。羽振りも良くて、秋平にお金を貸してたり。「利子は返して。お金借りてることを認識すれば必死に働くでしょ」という言葉は全く正しいんだけど、その言葉が舞台後半で意外な方向に響いてくるのが興味深いです。

登場シーンでは最後に島にやってくるのが、正子の妹、直子役の小林さやかさん。姉妹合わせて「正直」となる名前の付け方に、なんだか両親からのプレッシャーと、お互い大変な姉妹なんだろうなと思わされます。
相手役は島の町役場に勤める、時男役・本間剛さんですが、なんかHOBOで本間さんが良い思いをする率って高い気がする(笑)。

相変わらずの自由人キャラな林和義さんは大谷役。「大谷」と書いて「おおや」と読み、「大家」のようなポジションにも居る方。

そして座長のおかやまはじめさんは島の駐在・前田さん。何というか警察官の制服似合いますよねぇ。

んで、番長こと高橋由美子さんの役は島のスナックのママさん・須賀子役。ポジションが嵌りすぎてつい笑ってしまう(笑)。
適度に蓮っ葉で、適度に人生を楽しみつつ諦めてる様が、なんだかちょっと中の人と被るような(怒られるよ)
やっぱり目が座ってぶちぎれる由美子さんはいいわぁ。そればっかじゃ困るけど(爆)。

この作品で印象的だったのは、秋平が正子に「数時間隠し事をしていたこと」を、正子が責めるシーンで、秋平が上手側(というかトイレ籠もり中)、正子が下手側、いずれも舞台奥側。

そのシーンで、直前で照之の隠し事が須賀子にバレて、客席側で照之が上手側、須賀子が下手側にいて、正子が秋平をさんざん責めているのを、一声も出さずに、照之を睨みまくってる須賀子は怖すぎた(笑)。あれ、生きた心地しないわ・・・

HOBOの作風に全般的に言えるような気がするんですが、男性は格好つけていないほど格好いい、ということを見せているような気がします。
今回の作品に特に感じますが、上っ面の格好良さは、格好いい女性には見抜かれるわけで。

格好良すぎる3人の女性を揃えて上演された今回の作品。
それだけに、男性の格好良さって何なんだろうな、と考えさせてくれる作品だったように思えます。

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『ジャンヌ』(4)

2013.9.7(Sat.) 13:00~16:15、18:30~20:10
 世田谷パブリックシアター 3階B列20番台後半

2013.9.8(Sun.) 13:00~16:15
 世田谷パブリックシアター 3階A列10番台後半

「ジャンヌ」2回目・3回目観劇。
公演4日目にして3回目観劇というのもどうかと思うのですが(笑)、
平日はほとんど入れないので無理して連日。

いちはやくネタバレモードに突入です。お気になさる方は回れ右でお願いします。




初日観劇の時のblogが既に原作戯曲を読んでいることが前提のような描き方を少しくしてしまって、これはいけないなぁと思いつつ、なかなか当blog(というか自分)にとってのこの作品との距離感が、我ながらディープになりすぎているなぁと思いつつ。ただ、そこはそこ、趣味でやってる利点は多少ディープになってもいいということで、これは仕事じゃできないことですしね・・・。ということで割り切って参ります。

今回はまずは役別にジャンヌとどう接しているかについて、私見交えて書いてみたいと思います。

●ジャンヌ役/笹本玲奈さん
役柄としてのピュアさで言えば、今までの作品で1,2を争う透明感。
玲奈ちゃんの演技は一時期色々な鎧が被さったようなことがあったけれども、今回は鎧を着ているのに、役柄的には完全に透明。
邪気をまるで感じさせない無邪気さは、バーナード・ショーの「ジャンヌ」にぴったり嵌っています。

良い意味で他人を裏切ることも、裏切られることも知らない少女。自分が何をしたかも、何をしでかしてしまったかも、何をなしとげたかも知らない少女が、エピローグで後世の評価に触れて、当時の自分の足りなかったところを自覚する場面が新鮮。

ジャンヌが「使命」という鎧から解き放たれて、当時関わった人々をある意味茶化すエピローグが、玲奈ちゃんのやんちゃ性全開で面白い。あんだけみんなの運命狂わせておいて、本人至って楽しそうなんだもんなぁ(笑)。

●ウォリック役/今井朋彦さん
イギリスの領主(ウォリック城の領主)で、後世のジャンヌを褒め称えてただ一人、ジャンヌから感情なく返される人(笑)

ジャンヌにとって明確な敵はある意味、この人だけでしょうから。「ジャンヌの死は政治的に必要だったが、政治的必要は時にして政治的失政であり、(ジャンヌの死は)まさに大しくじりだった」とまで言う、ジャンヌにとっては不倶戴天の敵に関わらず、なぜだかそのちっぽけささえ、愛おしく思えるから不思議。

ジャンヌは男たちの立場を剥ぎ取る悪魔でもあったわけで、その報いを存分に受けた人物とも言えるかと。

●デュノア役/伊礼彼方さん
オルレアンの私生児の異名を持つフランス軍司令官。ジャンヌが一番心を通わせた相手・・・と言われていた割には、初日段階では意外なことにどっちつかずな役作りになっていて、彼にしては意外でした。ようやくここにきて立ち位置がはっきりしてきて、ジャンヌに過度に肩入れしないことが、ジャンヌを尊重することであることに収斂しつつある感じ。

唯一「ジャンヌがロワール河で溺れていれば鎧を着ていても助ける」告白が、他者のジャンヌへの心情と違う部分で、思った以上に「自分の立場が大事」なポジションにいたのが意外。エピローグでのジャンヌへの告白が、日を増して本心の吐露に近づいてきてて、その方向性大好きです(笑)

●修道士マルタン役ほか/大沢健さん
この役としては6場(ジャンヌの裁判シーン)に登場。陪審員がイギリス側、つまり敵方に固められる中にあって、ジャンヌ側に付いてくれる数少ない方。コーションの命によりジャンヌを見届ける、異端告白宣誓書を起草するという立場にあたります。

6場の数少ない癒し系。この作品は「ジャンヌ」にしては裁判シーンが重視されていませんが、それでもジャンヌがあそこまで責め立てられるのは、やっぱり見ていて辛いもの。そんな中に温かい感情を送ってくれる方なのです。

●シャルル役/浅野雅博さん
色々反則すぎます(笑)。ご覧になった方は分かると思いますが、
初っぱなから「出オチ」です(笑)。
フランス王太子として、ジャンヌの功績でランスの大聖堂で即位でき、フランス王となるお方。
たぶんジャンヌの「励ましバロメーター」を計量化したら、ダントツにトップになるであろうと(笑)。

それでいて、ジャンヌは王太子時代に「まだ『王の』良さじゃない」という言葉でシャルルを励ましているのがとても素敵。
そしてエピローグで「本当の『王様』になったのね」との賛辞は、
シャルルにとって何よりのご褒美だっただろうなと。

「お前が勇敢だから、私も勇敢に『ならざるを得なかった』」という賛辞は、ジャンヌにとって何よりのご褒美だったろうし、そもそもジャンヌのことを「素直に田舎に籠もっていてくれればな。な(笑)」と言っているあたり、ジャンヌに対する愛情を感じます。

もっと邪魔者あつかいするもんだと勝手に思ってたのに(笑)

●ジル・ド・レエ役/馬場徹さん
「青鬚」と名付けられる廷臣役。ジャンヌと大司教が会話しているシーンで、ジャンヌを嗤って大司教に窘められたときのバツの悪そうな感じが実に魅力的。それでいて事後「実は彼女のことが嫌いというわけでもないのだが」という告白が興味深いです。

ジャンヌに対する皆の心情を言い当てているんですよね。「嫌いじゃないけど困った娘だ」、だからといって「目を離さずにはいられない」(良い意味でも悪い意味でも)というところが、ジャンヌのジャンヌたるところなのだろうなと。

●デュノアの小姓役ほか/石母田史朗さん
煮え切られないデュノアの横でむちゃくちゃ困っている人ですね。
毎日「西風よ吹け!」って言われ続けても困るだろうなぁ(笑)。

オルレアンの突撃が決まり、ジャンヌが怯えきってデュノアに泣きじゃくってしがみつく(ちなみにこのシーンは演出の鵜山さんいわく「ここは笹本玲奈の見せ場だ。男が守ってやりたいと思わせるんだ」・・・だそうなんですが、それをバラしちゃうのが笹本玲奈さまの天然さ)・・・ところで、ジャンヌが持っていた旗を離してしまう・・・のを、地面に落ちるまでに掴まえるのが重要な任務です。

成功率、上がってきました(笑)←初日は失敗されてました

●プーランジェ役ほか/金子由之さん
ジャンヌがシャルル王太子への仲介を頼んだ領主に仕えし将校であり、ある意味ジャンヌに最初にほだされた中の1人であり、旅を共にした人・・・が2幕では宗教裁判の告発官になるのですから、芝居というのは皮肉に作られているものです。
当然分かってそういうことになっているのでしょうけれども。

●ストガンバー役/今村俊一さん
イングランド枢機卿という立場で、ジャンヌに対してはっきりと悪意を持って接した度合いについては、この方が一番鮮明かと。ウォリック伯爵の配下であるかのように振る舞い、宗教裁判妥結後、ジャンヌを火刑台に乗せた、査問官いわくの「度し難い大馬鹿者」

4場のウォリック伯爵とコーション司教の交渉の場にも立ち会いながら、コーション司教に「私は君を許そう、無知故の暴言と思うから」とまで言われる度し難さ。しかしながら、実は4場の交渉で伯爵と司教が高度な話をしていたのにもかかわらず、宗教裁判で問題にされた「ジャンヌは男装をしている」という命題を最初に問題にしたのはこのストガンバーなんですよね。

「残酷がどういうものなのか理解していなかった」からこそ、自らの身で「残酷」を知ることになった、だからこそジャンヌはこのストガンバーにはきつくあたっていないのですね。
ウォリックとは目を合わせようともしないのに(笑)

●イギリス兵役ほか/酒向芳さん
この作品のダークホースです(爆)。あんな良い思いをして(笑)

人の価値は肩書きで決まるものではないことを表現するための役と言えますが、逆に言うとしがらみなしでは人は色々なことが言えて色々なことができて。

それはジャンヌについても実は言えるのではないかと。
「考えていたら何も始まらない。それぞれの行動をする前に考えていたら、あなたがたは今その場所にいられただろうか」と言っていたジャンヌは、いつしか自分の挙げた成果によって自らのハードルを上げて、「聖女ジャンヌ」という肩書きに押しつぶされてしまったのかと、ちょっと思う。

●大司教役/石田圭祐さん
ジャンヌのせいでとっても苦労した方・・・恐らくトップクラス。

ジャンヌにほだされて顔を赤らめていることこそ奇跡、とジル・ド・レエに冷やかされているのがとってもコミカル。
最初があれなもんだから偉い人に見えない、というネックも抱えつつ、ジャンヌにさんざん自分の立場を脅かされ、「自分の信念さえ揺らぐ」という苦労振り。

ご本人、パンフレットで「凡人って気楽で幸せだな」と語っていますが、ジャンヌだけでなくそれは大司教にもあてはまるような気がします。

●ラ・イール役ほか/新井康弘さん
ランスの大聖堂で、実は一番ジャンヌ側に立っているのがこの方。デュノア以上に。
根っからの軍人というか、根っからの最前線の方なのでしょうね。

デュノアは意外なことに理性な人で、だからこそ実は「有能な指揮官」なわけで、「勇敢さは戦闘に置いて優秀な下僕だが、優秀な主君とは言えない」とかでしたっけ。

「地獄の底までついていきたくなる」と言いながら、ジャンヌからは「二人で天国で会いましょう」と言われていたりする、ジャンヌが人を見抜く力を持っていたことを伺わせるシーンで好きです。

●死刑執行人役ほか/小林勝也さん
2役と言えばこの方も好対照。ガミガミ屋(正式役職名:侍従長)と死刑執行人(通称:家族思いさん)の2役。

エピローグのあのくだりが最高。日常に近いからこそ、貴族だの宗教家だのとは違ったリアルさというか、憎めなさを感じます。イライラしているウォーリック伯爵の前に出てきたのはとんだ災難だなぁと。

●ロペール役、審問官役/中嶋しゅうさん
この2役もそう、凄い落差でした。「ジャンヌを最初に助けた者」として歴史に残り、「ジャンヌを審問した者」として歴史に残るというのも、まぁ凄いなぁと。

かつて玲奈ちゃんの父親をやった方が、作品が違ってここまで立場が変わるとは・・・とはいえ、役が違ってまた出会えるのは、お互いが俳優として一線にいるからこそですからね。

「弁護士も必要としないぐらい公平な裁判」と明言していますが、それは当然イングランド側の意図とは相容れない。それでいて”宗教裁判”という本質にこだわった審問官としての公平さは、でもジャンヌにとっては何の恩恵ももたらさない皮肉。

「ジャンヌを有罪にするのはジャンヌ自身」、そう言った審問官は、ジャンヌの一番の理解者でもあったのでしょう。そして理解者は表面的には敵であっても、内面的には味方であったと。ジャンヌの内心は天に召されたことで昇華したのですから。

●コーション役/村井國夫さん
原作戯曲と舞台で印象が一番違ったのは、実はこのお方。
実は、ジャンヌを敵視して、罪人に仕立て上げようとしているイメージだったんです。

ところが。

審問官役のしゅうさん同様、何とかしてジャンヌの魂を救おうとしている。
不勉強だったのですが、そもそも宗教裁判ってそういうものなんですね。「普通の世俗の裁判ではない」から、「司教の馬をただで持って行った」ことも罪ではないと。(ちゃんと裏をとってあって「司教がお金受け取らなかっただけ」と返している審問官はさすが)

立ち位置的に、少し政治的な要素が絡んでいるように感じるのは、ウォリック伯爵との4場の場面の印象が強いからでしょう。
「ジャンヌを引き渡すことについて最初から既成事実化している」ことに腹を立てたりするあたり、体面を重んじる”らしさ”を見せています。

「教会は火あぶりにしないが、破門して俗人の世界に引き渡せば、あとはあずかり知らぬところ」という立場には、うすら寒さを感じますが、でも教会の正義を体現して余りあるわけですね。

その意味で「これは間違っている、俗人の代表が引き取りに来るべきだ」と言った彼の言葉は、「教会を傷つけない」筋から見てまったく真っ当で。
「教会が主体的に引き渡した」という事実が残ることが、宗教裁判としての失敗を意味するからなのですね。

宗教裁判として公平にあることが、教会そして自らを守る唯一の方法でもあったのだと。

だからこそ、ジャンヌはコーションに対しても好意的なんですよね。
自らをそんなに卑下することはない、と励ましている姿が印象的でした。

・・・という、キャスト別感想だけでここまで来てしまいました。ひとまずここまででアップします。

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『ジャンヌ』(3)

2013.9.5(Thu.) 19:00~22:15
世田谷パブリックシアター 1階D列10番台後半(センターブロック)

この作品ほど事前に準備して初日に臨んだ作品というのも個人的には初めてかもしれません。
日本の上演は44年ぶり、実質初演に近いものの、戯曲もあるし、新宿の事前講座には行くし、世田谷のプレトークも行けたし、札幌動画も見られたし・・・

ただ、事前に準備しすぎて混乱した部分と、事前に鮮明になって良かった部分が両方あったかなというのが正直な感想。
腹八分目とはよく言ったもんで、自分が一番苦手なことだなぁ・・・

あ、そういえば今公演の世田谷パブ、最前列はB列です。よって、D列は3列目。

ネタバレいっぱい ご注意ください




ジャンヌ・ダルクを描いた舞台作品を見るのは自分は3作目。

1作目はアヌイが描いた「ひばり」で、
その時のジャンヌは松たか子さん。
2作目はレチタ・カルダ(音楽劇)で、
その時のジャンヌは新妻聖子さん。
そして今回の3作目はバーナード・ショーが描いた「聖女ジョウン」が原作、今回のジャンヌは笹本玲奈さん。

期せずして2004年「ミス・サイゴン」のキム役3人勢揃いですが、あの役を出来るクラスの方でないと、太刀打ちできないのがこのジャンヌなのですね。(このほか、ストレートで堀北真希さんが演じられています)

ジャンヌ・ダルクといえば「男勝り」の代名詞のように言われる役ですが、こと上記3つの作品を比べるにつけ、今回の笹本ジャンヌは男勝りを前面に出してはいません。というか、外見は完全に男です(笑)。

外見的には、最初のドレスシーンが(ほとんど)「ルドルフ・ザ・ラストキス」のマリー・ヴェッツェラ(の赤いドレス)なのを除いては、基本的にずっとピーターパンです(爆)。

つまるところ、女性が無理して男装しているというか、そういう域はとうに通り越していて、「兵士の中にいても女扱いされない」ことに何の違和感もないのが凄い。

にもかかわらず、少女っぽさを一番持っているのが笹本ジャンヌな気がする。(女性っぽさという点では松さんが抜けていると思う)

笹本さん自身も「彼女がかわいらしさを持っているということが、台本を読んで稽古を始めて、印象強かった部分」とインタビューで言っていますが(今回、インタビューの多さは特筆すべきものがあります。ここまで役について語る機会が多いのもとっても珍しい)、「彼女は自分では人を斬っていない」、「大事に抱えている剣は、ジャンヌにとっての十字架」という表現から、「戦いの先頭に立ちながらも、戦意高揚には長けていても、実は敵をばっさばっさと切り捨てるような剣士」でもないという印象が意外に思えます。

戦場で”最も心を通わせた相手”である、フランス軍司令官のデュノア(演じるは伊礼彼方さん)は、ジャンヌに対して苛立ちを隠せずに「君は先頭に立っているからいいが、その後ろで実際に戦う戦士の犠牲を考えたことがあるのか」と言うシーンにもそれは表現されていました。

ジャンヌを笹本さんが演じることを知ったときに、笹本さんとジャンヌの関係として、自分が最初に感じた共通点は、この日の観劇でもぶれることはなくて。
それは、

「周囲の悪意に対して無自覚であること」

だと思うんですね。

ジャンヌは領主を動かし皇太子の元まで連れて行かせ、皇太子も籠絡して結局ランスでの戴冠式にまで持ち込む。

シャルル王にとっては自分を王にしてくれた立役者なはずなのに、シャルルはじめ全ての人たちが、少なくとも表面的にはジャンヌに対して感謝の意を表さない。それに対して不満をデュノアにぶつけるジャンヌを、デュノアは窘めます。

「君は王や大司教、貴族といった者どもの立場をなきものにしておいて、それで自分が褒められることを望めると思うなんて」、なんと浮世離れしているのだ、と。

ジャンヌは自分は神の声のもとに、皆に良い施しをしていると信じているわけで、感謝さえされども、罵声を浴びることは信じられないのですね。

そこに「周囲の悪意に対して無自覚であること」を強く感じるのです。演じる人とのシンクロを過度に意識することは良くないこととはいえ、役者のパーソナリティと役の演じ方というのは無関係ではいられないわけで、「なぜ私のことを皆そんなに嫌うの」という言葉が”本心から出てきそうな”笹本ジャンヌは、まさにこの戯曲向きのジャンヌであり、演者だなと思ったのです。

この作品のジャンヌはぶれちゃいけないと思えて。
ジャンヌは徹底徹尾「神の声のもとに動いた少女」であり、彼女をとりまく状況だけが、ただ大きく変わり続けたのだと思うと、笹本さん演じるジャンヌが、ずっと揺れないで見られたことが何より素敵だったのでした。

戯曲を読んだときも、この日見た時も感じたことですが、この作品にとってのジャンヌは、周囲の「都合」によって評価を上下させられた存在で。いつでもただ同じように生きていたジャンヌにとっては、時に「利用」され、時に「弾劾」され、時に「評価」されることに、”何の感慨も持たない”ように思えてきて。

自分が評価されることが自らの行動原理ではない-それが貫かれているからこそ、ジャンヌが今に至るまで神格化されているのだと思うし、ぶれないジャンヌに対する、ぶれる周囲の男性たち、それを「エピローグ」という観点から見せる展開はとても興味深かったです。

普通だと火あぶりで終わりなわけで、ここは賛否両論あるとは思うのですが、個人的には「エピローグ」があってこそこの「ジャンヌ」というか、ジャンヌの高潔さを示しているようで、自分は好き。歌いそうで歌わないラストも好きでした。ぎりぎりまで歌わせる誘惑と戦ったような気配は見えますが、あそこで歌っちゃうと、ストレートに挑戦した意味が減ってしまうように思うので、自分は満足です。

あのものすごい量の台詞を、ほぼ2回だけのミスで切り抜けた笹本さんの凄さに脱帽ですが、そのうち1回がよりによって一番間違えちゃいけないシーンだったのですが、それでも後半ほとんど最後に近いということもあって、客席から「何とか立ち直って欲しい」という空気が充ち満ちたことがとっても嬉しかった。”ここまで頑張ったんだから”と客席みんながジャンヌの応援団になっていた気がして、なんつーか、敵役はやりにくいのかやりやすいのか・・・

・・・

初日感じたことはまだまだありますが、ひとまず初日はここまでで。

何より、笹本さんはもちろんのこと、演者の皆さんの充実ぶりにただただ痺れる公演。ぜひ1人でも多くの方に見ていただきたい作品です。

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