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『二都物語』(2)

2013.8.11(Sat.) 12:30~15:40
帝国劇場2階M列(最後列)40番台後半(上手側)

初見から2週間、原作もひとまず流し読みしてここ2週間の変化も含めて観に来ました帝国劇場。

2階席最後列から見下ろすと、赤い色が目立つのはちょっと淋しかったりしますけれど。
B席最後列が2桁近い空きがあるのは久しぶりに見ました。

一度見た時に「次は原作を読んでから見ないともったいない」と思ったのは当たりで、改めて見ると話の進行がとても分かりやすい。

・・・・でネタバレ発動、回れ右よろしゅうです・・・




原作を見てから見て、一番印象的だったのは、ルーシーパパが「私の手紙は悪用されたんだ」と言ったくだり。
初回は分からなかったんですが、なるほどドファルジュ一味が鬼畜過ぎる。

貴族に最も悪意を持った瞬間の手紙を牢獄奥深くに隠し、その手紙が発見され窮地に陥るというのは・・・一度は貴族に怨みを持った事実があるだけに、反論は難しいところですね。改心して市長にまでなったバルジャンが仮出獄許可証当時の話をいつまでもほじくり返されるようなものか・・・

今回見て印象的だったのが、とある2人の人物の類似性。

1人は、岡さん演じるサン・テヴレモンド侯爵。
もう1人は、濱田さん演じるマダム・ド・ファルジュ。

この2人の共通点というのが「終わりがない」ということ。

侯爵はスパイを配し手当たり次第、無実の人をも牢獄に叩き込み、名ばかりの裁判の後に葬っていく。
マダムは愛する家族を皆殺しにされた怨みから、テヴレモンド一族を根絶やしにしようとする。

この2者の間には何一つの妥協もなく、何一つの共感もないはずなのに、本質的には何の違いもないように思うのですね。
どちらから仕掛けたかという問題はあるにせよ(=テヴレモンド側から)。

その両者ともに、「何かが壊れている」ことを感じて。

侯爵の過剰なほどの振る舞いは、自分の立場に対する危機を常に感じているから、というか放っておくと自分が反撃されるから、という小心者感を感じます。岡さんの演じるこの手の役=といっても浮かぶのは「ルドルフ・ザ・ラストキス」(初演)のターフェ首相が一番印象強いです=は、なぜだか他者に対しての過剰な警戒というか、「実は内心びびっている」感じが見えて、実は結構好きな役作りだったりします。

翻ってマダムは自分の愛する家族を皆殺しにされて、復讐の念でしか自分を支えられないという、別のベクトルではあると思うのですが、「最後っていつだ」と夫に聞かれて答えられない。「それが分かるぐらいならこんなに苦しまない」というのが本音なのでしょう。

そして、サン・テヴレモンド侯爵には甥にあたるチャールズ・ダーニー(改名後)がいて、マダム・ド・ファルジュにはド・ファルジュがいる。前者は喧嘩別れ、後者は最後まで寄り添うという違いはあれ、それぞれの相手に対して反旗を翻していることが共通していて。

前者は喧嘩別れ故にその反旗(ある意味軌道修正のチャンス)が実らなかった故の最期、後者は最期まで寄り添う故に愛する妻を永遠の生き地獄から解放したとも言えるのかなと思えたりしました。

この物語において「本当の”悪”は何なのか」は実は「貴族」ではないように思えているんですね。

ちょうど前日に「ジャンヌ」の事前講座を聴いて、そのまま夜に「ウィキッド」を見ているものですから、「表面的な”悪”は小物な悪だ」という思いが消えなくて。

この3作品、「『民衆』なり『とりまく人々』がよってたかって特定の”悪”に対して責め立てる」という点で共通するコアを持つように思うのですが、思うに、「他者を『悪』とすることで自分を安全な位置に置く」ことが実は何より悪なのではないかと。それが絶対的に悪いという意味ではなくて、その『自覚』は持つべきなのではないかと、そう思えて。

この「二都物語」で言えば、皆が『何か』に乗っかろうとしているように思えるんですね。一つは”貴族の権威”であり、もう一つは”民衆の怨念”であり、言葉は悪いですがそこに”ただ乗り”しようとする「無自覚」は「罪」なのかなと思えて。

ド・ファルジュが皆を止めることに、実はいつも腑に落ちるものを感じていたのは、なんか「民衆」というものに対するもやもやした気持ちだったように思えます。

始まりはピュアでも、それを利用しようとする悪意はどこにでも存在するのでしょうから。

「マリー・アントワネット」のマルグリットにそれを感じたなぁ・・・



話は変わって、シドニー・カートンの存在感について、この日感じたことを。

シドニーは弁護士という上流階級にあって、庶民の居酒屋にも出入りするフレキシブルさ。

それを見ていて思ったのは、「彼は誰に対してもフラット」ということ。
同僚に対してさえ、ペテン師に対してさえ。
彼にとって「特定の誰か」を意味する人というのはいなかったんじゃないかと思わされて。

その殻を打ち破ったのがルーシー。シドニーにとっては「自分を-他の誰でもない-自分として認識してくれた初めての存在」だったのではないかと。

最後のシーンの直前、ロリーから「あなたを誤解していたかもしれない」と言われ、「いやあなたは正しかった」とシドニーが答えることが印象的で。

ロリーが最初に出会ったシドニーは「誰も信じず、誰も頼らない孤独な人」だったけれども、ロリーが別れるときのシドニーは「誰かのために生きることを知った人」だったわけで、シドニーにとっては「自分が変わった」ということなのだろうなと。



重いシーンが続くこの作品にあって、ひとときの安らぎがシドニーがリトルルーシーの尻に敷かれる場面(爆)。
リトルルーシーがおちゃめにおしゃまに、日替わりネタを出すんですが、シドニーがしっかりそれに乗っかる(笑)。
この日も、ベッドの上で両手広げて酔っぱらいのカートンの真似をしてて、それを受けてシドニー、「僕の物真似はやめてくれ」(笑)

リトルルーシーの寝かせ役がシドニーで、「これだけろくなニュースがない」(直前の居間の会話)の中で、リトルルーシーがシドニーのお話しを楽しみにしているということは、きっと明るい話をユーモア混ぜてやっているんだろうなと思うと、そしてシドニーが昼間「今日は何を話そうか」うんうん唸っているであろうことを想像したりするとちょっと面白い(笑)

さっきのシドニーの「彼は誰に対してもフラット」というのはリトルルーシーに対しても「一人の人間」として対しているのが印象的で。リトルルーシーがシドニーにそこまで懐いているのは、自分を子ども扱いしないことについてじゃないかなと思えたりします。リトルルーシーにとっては間違いなく初恋の相手ですよね、シドニーは。



土曜日の「ジャンヌ」事前講座でもご一緒したフォロワーさんと話していて気づいた言葉に「揺れる」という言葉があって。

「ジャンヌ」の講座で鵜山さんが「男は(この歳になっても)揺れている」とおっしゃっていたのですが、前週の札幌で伊礼さんと話されたときに「出来上がっているものをそのままなぞってもやる意味がない。お互い(演出家なり演者なり)が影響し合いながら芝居を作り上げていくことに意味がある」という趣旨のことをおっしゃっていて。

その観点から見ると、シドニー・カートンは最初は「自分の人生の生き甲斐がわからずに『揺れていた』」存在だったと思うのです。それが、初めて「自分を自分として認識してくれた」ルーシーに自分の気持ちを『揺らされ』、そのルーシーが愛するチャールズが危機に陥った時に、自分が何をすべきか、自分の人生の意味に気づいて。
自分の人生の意味に気づいたからこそ、どんな障害にも『揺るがず』最後を「前を向いて」迎えられたのかなと。

シドニーはラストシーンで、お針子さんと出会う、そのシーンは感動的ですが、そこでお針子さんはエヴレモンドに語りかけるわけですが、そこに思いも掛けぬ人を認めるわけです。(ここ、最初に見た時から台詞が減っていて凄く良かった。最初の時は正直ちょっと過剰に説明しすぎだと思ってたので。)

・・・エヴレモンドの死は、残された人にしてみればある人は納得するだろうし、ある人は憤慨するだろうし。
・・・お針子の死は、残された人にしてみればある人は納得するだろうし、ある人は憤慨するだろうし。

それが納得のいくものなのか、そうでないのかによって、それらの「死」はその時点で生きている人の感情をどう「揺らす」かに影響するのでは、と思わされたのでした。

同じ年代の作品ということもあり、このあたりの話は「ジャンヌ」とも密接にリンクすることもあるので、また「ジャンヌ」を見た後に考えてみたいです。

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