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『マリー・アントワネット』(3)

2006.11.18(Sat.) 17:30~20:45 帝国劇場B席 2階I列サブセンター(下手側)

MA3回目。Wキャストのマルグリットは今日は2度目になる新妻さん。
さすがに3回目ともなると、幾分かの覚悟と相応の心の準備をして出かけるわけですが、何というか心にガードを付けて見に行く観劇ってそれ時点でかなり負担な気はします。

でも複数回見て、(1)と(2)で書いたことにかなりの訂正を入れなければならない感じです。というか、3度目見て、1度目と2度目の疑問に対する答えを認識できたという感じです。
何というか事前にチケット買ってなければリピートを絶対しないであろう作品が、リピートしないと理解できない時点で破綻してるとしか思えませんが。

あと自分の変化としてはようやく原作を読みました(今帝劇で買うとキャストの帯付です)。

原作は3度目のこの日の終演後に、上下巻を一気読みしましたが(800ページある文庫本を終演直後の21時から翌朝3時までかけて6時間ぶっ続けで読みつづけた自分には我ながら呆れますが、意外に読むの速いんだなーと思ってみたり)、原作を読んでようやく舞台版の謎が解けたところもあり。

舞台版、原作ともにネタバレありです。いつものことですがご注意くださいませ。

「マルグリットの人物造型が一貫していない」
これは原作を読んで分かったのですが、もともと原作ではマルグリットではない部分まで、舞台版では-ヒロインを目立つようにするためか-マルグリットにしてるんですね。
原作を既に読んだ人から「アニエスが2幕ですっぱり切り取られてて悲しい」という感想を聞いてたんですが、

アニエスってば修道女やめて革命闘士になってるじゃん
でも革命の欺瞞さに気づいて迷ったりしてるじゃん

・・・えーびっくりしましたよ
これ舞台版ではそっくりそのままマルグリットに引き継がれてるわけで。マルグリットの心情の動きが後半てんでわからなくなってたんですが、「なんだ、別の人の役割だったのか」と思うとすごく納得。

以前、アントワネットが「しがいがない役になってるなぁ」と書いてたのですが、その分アントワネットのおいしいところまでマルグリットに移動してて、なんだかちょっと違和感を感じるのでした。

原作のアントワネット、すごい魅力的。
原作読んでそれを見込んで舞台版のキャスティングを受けたら、正直詐欺に近いんじゃないかと思う(苦笑)

つかアニエスがマルグリットに歌ってる「遠い空のかなた」って原作じゃアニエスがアントワネットに歌ってるし、そんなのありか(笑)。

あくまで原作は「原案」なのだから、原作通りにやることが必須ではないけれど、原作は人物造型とか物語の作りの一日の長があるのだし、そこからキャラクターだけ借りるのであれば、それぞれのキャラクターの人物造型を再度組み立てなおす必要があるんじゃないかと思う。

マルグリットが一貫性がなかったり、アントワネットが「それでも女として」の部分が薄くなっていたり、カリオストロの存在の意味がわからなかったり、アニエスが中途半端に尻切れトンボになってるというのは、全部キャラクターの人物造型の再構築が不十分なところから来てると思う。

極論として原作は「マリー・アントワネット」なのだから、ヒロインをマルグリットにするのであれ、アントワネット、マルグリット両方にするのであれ、”アントワネットが最後まで持ちつづけたもの”をきちんと他のキャストに分散すべきじゃなかったかと。
最後までアントワネットを救おうとした、フェルセンの慟哭に語られてるぐらいしかないから・・・・

原作のアントワネットはすごく魅力的なキャラクター。それに反してマルグリットは頭の回る小間使い。その差を一気に逆転させるにはちょっと舞台版の脚本は不十分かと思うんですね。

マルグリットの感情の動きがわからないとは前回書いたのですが、アントワネットが断頭台にかけられる前にアニエスに尋ねられた時に答える部分

誰がするの同情なんて
自業自得と人は言う
それでも見たいの私は
彼女の処刑を

マルグリットの心情を理解するのにはどうもここが一番大きいファクターなようで。

・同情はしていない
・自業自得とマルグリットが思ってはいない ←「人は言う」だから

この直前に裁判のシーンでマルグリットはアントワネットからフェルセンへの手紙を「受け取っていない」と答えて、結果的に「愛国者」の告発によりアントワネットは断頭台へ送られます。
その時にアントワネットが女として侮辱されたことに対して、アントワネットは「人はどこまで卑劣になれるのでしょうか」、マルグリットは「私たちの戦いも汚されて」と言っています。
ここで感情のシンクロが期せずして発生してるわけです。

若い時に栄華を極めた故に、ただ憎みつづけた相手の生殺奪権をその手に持ちながら、それを行使しなかったマルグリット。
手紙の存在を明かさなかったのは、間近で見た「アントワネットの生き方への理解」が「革命への疑問」より大きくなったからなのかと思う(後者は原作本ではアニエスの役割)。

だから

・憎んでる、同情はしていない
・彼女の処刑は、愚かな人間が犯す罪の象徴として目に焼き付ける

という結論になってこれなら自分的には相当すっきりします。

クライマックスの「自由」の曲でマルグリットは「自由を求め憎しみぶつけあう、愛が生むのが自由」と歌っているのですが、それが舞台版の「アントワネット・アントワネット」における、本来突出して目立たなければならないメッセージではと思うのです。

悪の象徴として存在しているかのようなオルレアン公が「どうせこの世は良くはならない」とメッセージを出している横で、それを打ち消すだけのメッセージ力がここになきゃ、作品としてのメッセージが成立しないのですよ。

だっていくらなんでも「どうせこの世は良くはならない、だから悪いことをいっぱいやろうぜ」が結論じゃまずいわけで(笑)。

声量ではミュージカル界の若手で1・2を争う新妻さんと笹本さんがやっておいて、それでさえ埋もれるマルグリットのメッセージって、そもそもホンの問題としか思えないわけで、

アントワネットは我侭女であったが、自らの愚かさ故に自らの破滅を導いた
革命はその名において自由を隠れ蓑に暴走し、自滅への道を突き進む
だからこそ、その両方の挟まれた「皮肉な運命の目撃者」であるマルグリットに、明日への希望を語らせないとこの作品を観劇したことによる希望は見い出せないわけで

極論を言ってしまえば、内部的に破綻しようがどうしようが、「終わりよければすべて良し」という諺もあることだし。
最後のメッセージが中途半端だから、途中で見せたグロやら不快な部分やら、そこまで巻き添え食らって批判されると。
ヒロインをマルグリットにするなら、最後までマルグリットを目立たせてテーマを語らせなきゃダメだろうと。
それを役者の力技で乗り切るようなことをさせないで、きちんと構造的にマルグリットを目立たせないと、物語そのものの説得力とメッセージが薄れるのではと、そう思うのです。

MAの観劇もあと3回でしたが、1回はB席のチケットを嫁に出す予定(B席は今回、値崩れ率が低い。つか2階は正直お手ごろな値段だと思う)。あと2回のS席はどちらかといえばお気に入りの笹本マルグリットだし、確実に額割れするから見た方が良さそうなんで。

この値崩れのご時世、「100万のキャンドル」を前方席で見てみたいという願望もちょっとだけ残ってるんですが、それ以外のシーンが見切れそうで、なんだか二の足踏んでます。

ちょっと心がすさんだんで、15日に発売された『ゴルフ・ザ・ミュージカル』のCDで由美子さんと堀内敬子さんの美声に酔いしれてお口直ししてるのは秘密(←なんじゃそりゃ)

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コメント

はじめまして
興味深い分析!楽しく読ませていただきました。
私 本日2回目のマリーアントワネットでした。
うーーんとうなって帰ってきましたがこちらの記事を呼んで、そうそうと思っております。

前から4列目から見る笹本さん!
肌の色がきれいで・・・(^^)v

これから他の記事も読ませていただきますね。

投稿: Tomoko | 2007/02/09 21:20

Tomokoさん
いらっしゃいませ。
梅芸で「マリーアントワネット」をご覧になったのですね。
帝劇とは多少の演出変更が入っているらしいのですが、それなりに私の文章に共感いただけたようで・・・・
本質的には変わってないんでしょうか。

4列目でご覧になったとは羨ましい。とはいえこの作品じゃ見切れそうですが、大丈夫でしたか?
買い足す勇気が持てなかったので、前方席で笹本さんの肌の色を見るのは次の作品に持ち越すことにしました(^^)

他の拙文でもご感想ございましたら・・・ぜひお待ちしております。

投稿: ひろき | 2007/02/10 03:42

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