« 『ペテン師と詐欺師』 | トップページ | 『マリー・アントワネット』(2) »

『マリー・アントワネット』(1)

2006.11.5(Sun.) 17:30~20:45 帝国劇場2F 下手側B席

帝劇発、ワールドプレミア。
というお題目への期待へとは裏腹に、聞きたくなくても聞こえてくるあまたの評判の数々。
百聞は一見にしかず、と一昨日と全く同じ思いで、「ダンス・オブ・ヴァンパイア」以来3ヶ月ぶりの帝国劇場へ。

よく考えてみると、今年見た作品は劇場問わずハッピーエンドか、そうでなくても大団円作品ばかり。
『HUMANITY』(5・6月、新宿コマ・大阪フェス)、『ミー&マイガール』(6月・帝劇)、『ダンス・オブ・ヴァンパイア』(7・8月・帝劇)、『ゴルフ・ザ・ミュージカル』(10月・パルコ)と並べると、ストレートを1本も見てないことに気づきます。

とりあえずしょっぱなからネタバレありです。
つかエンドはあまりに有名だからネタバレもへったくれもない気がしますが(苦笑)。


悲劇的なエンド、自分は嫌いではないですし、ストレートも好き。
なので、今回の『マリー・アントワネット』も、周囲で言われるよりは芝居としては納得できるものがありました。演出の目的とか作品のテーマとか、まぁ言いたいことはなんとなく伝わってきます。

でも、これってミュージカルですよねぇ。
帝国劇場ですよねぇ。
心構えがあって、芝居として見に行ったから個人的にはダメージ少なかったけど、何しろ曲の盛り上がりが全然感じられないから、音楽に身を委ねるカタルシスがまるでないのが致命的。
ミュージカルって音楽の力を借りて空間を盛り上げさせられるのがメリットだけど、それを全然生かしてない。


動画で挙がっていた「100万のキャンドル」とか「心の声」とか、メロディとしてはいいし歌詞も好き、でも印象に全然残らない。群集のエネルギーも、同じ帝劇ならレミゼやサイゴンやSHIROHで味わったものを欠片も感じさせてくれない。

作りが悪いとはさほど思わないし、役者はいいし、でも悲しいかな登場人物に感情移入できないのがこれほどまでに辛いとは。

タイトルロールのマリーアントワネット役の涼風真世さん。
4作目(イーストウィックの魔女たち⇒あずみ⇒ミー&マイガールに次ぎ)ですが、一幕のあの高飛車な史実キャラが災いして二幕で感情移入するのに時間がかかって。
ただ、身分不相応な力を持ってしまった世間知らずの少女が、精神的に子供のまま大人になってしまった、ただそれだけなのかなと思った。それで罪が減ぜられるわけではないにしても。

二幕の母としての凛とした感じは良かった。国を治めるにはただただ不相応すぎても、一人の母親としては、相応にしっかりしていた。皇太子を失った時の「国は希望を失った」という言葉に対するロペスピエールの「あなたが希望を失ったのです」という言葉のあたりから、マリーアントワネットは王妃としてではなく、母親として生きようと思ったのかな、と感じたり。

マルグリットアルノー役の新妻聖子さん。
事実上の主役となるこの役、マリーアントワネットと同じイニシャルを持つ少女が、革命闘士として、貧しさに辱められた過去の恨みをエネルギーに、民衆を引っ張っていく役。

彼女のミュージカルは皆勤賞の私(レミゼ⇒サイゴン⇒マドモアゼル・モーツアルトに次ぎ)ですが、今回はちょっと期待はずれだったかも。
歌いまくりで大変なのはわかるけど、それは元々役者としての彼女のセールスポイントな訳だし、感情の起伏がなくて直線的だから、マルグリットの迷いとか勢いとか、そういったものを読み取りにくい。
その辺は脚本的に支えてあげなきゃいけない部分だと思うのに、正直役としてかなり薄いというか、役者の力量に過剰に頼った脚本に思えて、彼女には荷が重かったんじゃないかなと思う。

帝劇の広さに、このMAの中でマルグリットが持つべき存在感ということまで組み合わせると、新妻さんはいかにも歌だけが頼りという感じで、存在感として自分をより大きく見せることまで見込めない感じ。パルコで見た「マドモアゼル・モーツァルト」では、男っぽさと凛々しさが光っていたけど、それでさえ存在感ちょっと危ないところもあったから(MAにも出てる、当時相手役の広田勇二さんの方が光っていたシーンがいくつか)、パルコの4倍の客席の帝劇で同じ役回りを持たせるのにはかなりの無理があった気がする。

あと、背は小さいよねやっぱり・・・・
役者さんの中には実身長を大きく見せる技術を持った人がいるけど(私的な印象では市村正親さんがそれにあたります)彼女はそういう技術持ってないから・・・・

この辺は来週、笹本さんを見た上でどう感じるかかなと思う。

その2人を支える各キャスト、一番楽しみにしていたのはアニエス役の土居裕子さん。初見ですが評判聞いて楽しみにしていました。慈愛あふれるシスターの役にぴったり。マルグリットの暴走をたしなめるあたりも、包み込むような歌声はうっとりします。いかんせん物語がマルグリットの暴走と同期を取って動いていき、アニエスの居場所がなくなる関係上、2幕はほとんど出番がなくなってしまうのが残念。

ほかキャストでいいなーと思ったのはルイ16世役の石川禅さん。観劇3作目(アニーを銃を取れ⇒デモクラシー以来)ですが、なんであんなに気の弱い役が似合うんだか・・・・
マリーアントワネットにぐーの音も出ない感じが、いかにも不相応な役回りと時代に恵まれなかった主君だなぁと。鍛冶屋の歌は最強。癒されましたよ。

というかこの作品の一番キツイところは気の抜きどころがないところ。その点ではミュージカルではなく完全なストレートプレイ。(演出家氏はミュージカルの演出経験がないと。なるほど)

張り詰めたテーマに張り詰めた空間、音楽は空気を癒すのではなくBGM、歌も音楽としてというよりはBGM付きの台詞として存在しているので、とにかく真剣に向き合うと疲れてしょうがない。

基本的に舞台作品というものは対峙するのにエネルギーを必要とするのは分かるんですけれど、何せこの作品は結末も有名でいわばバットエンドだし、前述の通り音楽のカタルシスはないしで、精神的にきついんです。考えさせられる作品は好きだけど、肩の力を抜くシーンもないと、3時間ほぼぶっ続けで緊張を強いられることを考えると、体調が悪い時にはとても見られない作品です。

まぁ癒しといえば山口祐一郎氏が演じるカリオストロの横断歩道黄色手旗も和むけど(笑)。

そのカリオストロ、この作品では「この世界を意のままに操る錬金術師」となっているんですが、実際のストーリーテラー(山路和弘さん)、悪巧み役(高嶋政宏さん)と作品的な立ち位置が交わりまくって存在がわかりにくいったらないです。

帝劇4ヶ月(11・12月、4・5月)、博多座1ヶ月(1月)、梅芸1ヶ月(2月)の計6ヶ月(単純計算で40万席ぐらいある)は山祐氏の動員力をもってしてでないと埋まらないという意味かもしれないけれど、作品の出来的にも後から付け足した感じで、バランスが悪いように思います。
むしろきっぱりさっぱり、その役自体がない方がわかりやすい気がします。

山祐氏の今回の曲もさすがに難しそうな曲で、氏でしか歌えない感じがありますけど、M!のゲイカとかV!の伯爵とか、「あえて山祐氏がそこに存在しないと作品自体に力が漲らない」という感じではないのだから、動員力に期待して-なんていう本末転倒な話は止めたほうが良かったのではと思います。

というのは、最初にも書いたのですが、お客は『ミュージカル』を期待して見に行って、『芝居』を見せられて帰ってくるわけです。であれば初めからそれを公言しておくべきだったのではと思います。
土居さんや山路さんだけなら芝居系をやるというのはわかるけど、大多数の出演者はミュージカル系の人だし、何より帝劇のメインはミュージカルな訳で・・・・。

2幕の歌詞も平気で「ギロチン」とか入れてる訳で気持ち悪いというか、何というか、非常識というか、つかあのサイゴンでさえ、SHIROHでさえそんな直接的な表現使わなかったのに、芸がないというか何というか。
レミだってコゼ&マリしか生き残らないし、サイゴンは主人公が自殺しちゃうし、SHIROHは1人残して皆殺しだし、でもこの作品ほどの後味の悪さは残らないわけで。

やっぱり希望が欲しいなと思う。
いくら暗い物語でも、レミならコゼ&マリ、サイゴンならタム&エレン、SHIROHなら寿庵と、現世に希望を残した存在がいたわけで、きっと天に召された人の思いを、生き残った人も受け継いでくれるよね、というのが感動させてもらえたわけで。

今回の作品、タイトルロールがあの結末になるのはわかるわけですよ。有名だし。
でもそれならマルグリットはあんな中途半端な気持ちで終わっていいの?。
これは役者というより脚本として。

憎しみは何も生まないし
自らが信じてきた革命は仲間と信じていていた人々によって汚されて
正義なんてどこにもないかもしれないけど
それでも何かを信じないと生きていけないのが人間じゃないかと思う

マルグリットはマリーアントワネットの存在により何か信じるものを得られたのか
何かが変わったのか、それが読み取れなかったからマリーアントワネットの存在が無に見えた
マリーアントワネットは悪ではあっても無知としての悪であったのだと思うから、その存在がもう一人のMAであるマルグリットに受け継がれていて欲しかった

だから最後、あんな形で中途半端に終わらせては欲しくなかった。
演出家サイドとしては「あとは客それぞれが考えるべき」なのかもしれないけど、明らかに尻切れトンボでメッセージ性が弱すぎる、というかほとんど意味がわからないうちに終わる。

とにかく2幕は不快になるぐらい直接的な表現が多いから、作品としての終わり方が「早くこの作品から離れたい」と思ってしまうから、考えるまで思い至らない。
考えてもらおうというのであれば、まだしも違う掘り下げ方があったんじゃないかと思えてしょうがない。

それと心配なのは役者さんにすごいプレッシャーがかかってそうなこと。
何しろ6ヶ月のロングラン、代役が存在しない過酷なレース。いかにも負担が大きそうなマルグリット役、2人とも丈夫に見られているだけにかえって心配。
緊張の糸がそこまで持つはずなく、若いだけに役と役者の切り離しの技術を豊富に持っているわけではないので、2人ともの完走はきついような気がします。

とこんなまでに書いたこの作品、実はあと5回見に行くことにしてます(笑)。
だって売れないんだもん(爆笑)。

自分的には追加はしないけど、ちょっと興味深いので付き合うことにします。
嫌なシーンには目を背けて。

最後にこれだけは言っておきたいこと

カーテンコールにタイトルロールをずっと寝っころがらせておくってどういう神経してんだ(怒)

役としてはそれは自業自得の悪女なのかもしれないが、それだけでないことをわざわざ2幕で表現してただろうに、しかも仮に役に罪があってもそれを演じきった役者に罪があるわけがない。

全身全霊で演じきったタイトルロールにあの仕打ちという時点でこの作品に根本的に愛情が湧かないのが実は本音。

それでいてカーテンコールのトリはこれまた本人に罪はないけどタイトルロールじゃなくて祐一郎氏なわけだし・・・・本編で微妙な役割のままカーテンコールでトリだけもらったって祐一郎氏も嬉しくなかろうし、それ以前に

だからタイトルロールは誰なんだ

って実は本気で怒ってます。
(涼風さんファンではないがこの件は大変同情申し上げます)

|

« 『ペテン師と詐欺師』 | トップページ | 『マリー・アントワネット』(2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/74093/12573250

この記事へのトラックバック一覧です: 『マリー・アントワネット』(1):

« 『ペテン師と詐欺師』 | トップページ | 『マリー・アントワネット』(2) »