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2006年11月

『マリー・アントワネット』(3)

2006.11.18(Sat.) 17:30~20:45 帝国劇場B席 2階I列サブセンター(下手側)

MA3回目。Wキャストのマルグリットは今日は2度目になる新妻さん。
さすがに3回目ともなると、幾分かの覚悟と相応の心の準備をして出かけるわけですが、何というか心にガードを付けて見に行く観劇ってそれ時点でかなり負担な気はします。

でも複数回見て、(1)と(2)で書いたことにかなりの訂正を入れなければならない感じです。というか、3度目見て、1度目と2度目の疑問に対する答えを認識できたという感じです。
何というか事前にチケット買ってなければリピートを絶対しないであろう作品が、リピートしないと理解できない時点で破綻してるとしか思えませんが。

あと自分の変化としてはようやく原作を読みました(今帝劇で買うとキャストの帯付です)。

原作は3度目のこの日の終演後に、上下巻を一気読みしましたが(800ページある文庫本を終演直後の21時から翌朝3時までかけて6時間ぶっ続けで読みつづけた自分には我ながら呆れますが、意外に読むの速いんだなーと思ってみたり)、原作を読んでようやく舞台版の謎が解けたところもあり。

舞台版、原作ともにネタバレありです。いつものことですがご注意くださいませ。

「マルグリットの人物造型が一貫していない」
これは原作を読んで分かったのですが、もともと原作ではマルグリットではない部分まで、舞台版では-ヒロインを目立つようにするためか-マルグリットにしてるんですね。
原作を既に読んだ人から「アニエスが2幕ですっぱり切り取られてて悲しい」という感想を聞いてたんですが、

アニエスってば修道女やめて革命闘士になってるじゃん
でも革命の欺瞞さに気づいて迷ったりしてるじゃん

・・・えーびっくりしましたよ
これ舞台版ではそっくりそのままマルグリットに引き継がれてるわけで。マルグリットの心情の動きが後半てんでわからなくなってたんですが、「なんだ、別の人の役割だったのか」と思うとすごく納得。

以前、アントワネットが「しがいがない役になってるなぁ」と書いてたのですが、その分アントワネットのおいしいところまでマルグリットに移動してて、なんだかちょっと違和感を感じるのでした。

原作のアントワネット、すごい魅力的。
原作読んでそれを見込んで舞台版のキャスティングを受けたら、正直詐欺に近いんじゃないかと思う(苦笑)

つかアニエスがマルグリットに歌ってる「遠い空のかなた」って原作じゃアニエスがアントワネットに歌ってるし、そんなのありか(笑)。

あくまで原作は「原案」なのだから、原作通りにやることが必須ではないけれど、原作は人物造型とか物語の作りの一日の長があるのだし、そこからキャラクターだけ借りるのであれば、それぞれのキャラクターの人物造型を再度組み立てなおす必要があるんじゃないかと思う。

マルグリットが一貫性がなかったり、アントワネットが「それでも女として」の部分が薄くなっていたり、カリオストロの存在の意味がわからなかったり、アニエスが中途半端に尻切れトンボになってるというのは、全部キャラクターの人物造型の再構築が不十分なところから来てると思う。

極論として原作は「マリー・アントワネット」なのだから、ヒロインをマルグリットにするのであれ、アントワネット、マルグリット両方にするのであれ、”アントワネットが最後まで持ちつづけたもの”をきちんと他のキャストに分散すべきじゃなかったかと。
最後までアントワネットを救おうとした、フェルセンの慟哭に語られてるぐらいしかないから・・・・

原作のアントワネットはすごく魅力的なキャラクター。それに反してマルグリットは頭の回る小間使い。その差を一気に逆転させるにはちょっと舞台版の脚本は不十分かと思うんですね。

マルグリットの感情の動きがわからないとは前回書いたのですが、アントワネットが断頭台にかけられる前にアニエスに尋ねられた時に答える部分

誰がするの同情なんて
自業自得と人は言う
それでも見たいの私は
彼女の処刑を

マルグリットの心情を理解するのにはどうもここが一番大きいファクターなようで。

・同情はしていない
・自業自得とマルグリットが思ってはいない ←「人は言う」だから

この直前に裁判のシーンでマルグリットはアントワネットからフェルセンへの手紙を「受け取っていない」と答えて、結果的に「愛国者」の告発によりアントワネットは断頭台へ送られます。
その時にアントワネットが女として侮辱されたことに対して、アントワネットは「人はどこまで卑劣になれるのでしょうか」、マルグリットは「私たちの戦いも汚されて」と言っています。
ここで感情のシンクロが期せずして発生してるわけです。

若い時に栄華を極めた故に、ただ憎みつづけた相手の生殺奪権をその手に持ちながら、それを行使しなかったマルグリット。
手紙の存在を明かさなかったのは、間近で見た「アントワネットの生き方への理解」が「革命への疑問」より大きくなったからなのかと思う(後者は原作本ではアニエスの役割)。

だから

・憎んでる、同情はしていない
・彼女の処刑は、愚かな人間が犯す罪の象徴として目に焼き付ける

という結論になってこれなら自分的には相当すっきりします。

クライマックスの「自由」の曲でマルグリットは「自由を求め憎しみぶつけあう、愛が生むのが自由」と歌っているのですが、それが舞台版の「アントワネット・アントワネット」における、本来突出して目立たなければならないメッセージではと思うのです。

悪の象徴として存在しているかのようなオルレアン公が「どうせこの世は良くはならない」とメッセージを出している横で、それを打ち消すだけのメッセージ力がここになきゃ、作品としてのメッセージが成立しないのですよ。

だっていくらなんでも「どうせこの世は良くはならない、だから悪いことをいっぱいやろうぜ」が結論じゃまずいわけで(笑)。

声量ではミュージカル界の若手で1・2を争う新妻さんと笹本さんがやっておいて、それでさえ埋もれるマルグリットのメッセージって、そもそもホンの問題としか思えないわけで、

アントワネットは我侭女であったが、自らの愚かさ故に自らの破滅を導いた
革命はその名において自由を隠れ蓑に暴走し、自滅への道を突き進む
だからこそ、その両方の挟まれた「皮肉な運命の目撃者」であるマルグリットに、明日への希望を語らせないとこの作品を観劇したことによる希望は見い出せないわけで

極論を言ってしまえば、内部的に破綻しようがどうしようが、「終わりよければすべて良し」という諺もあることだし。
最後のメッセージが中途半端だから、途中で見せたグロやら不快な部分やら、そこまで巻き添え食らって批判されると。
ヒロインをマルグリットにするなら、最後までマルグリットを目立たせてテーマを語らせなきゃダメだろうと。
それを役者の力技で乗り切るようなことをさせないで、きちんと構造的にマルグリットを目立たせないと、物語そのものの説得力とメッセージが薄れるのではと、そう思うのです。

MAの観劇もあと3回でしたが、1回はB席のチケットを嫁に出す予定(B席は今回、値崩れ率が低い。つか2階は正直お手ごろな値段だと思う)。あと2回のS席はどちらかといえばお気に入りの笹本マルグリットだし、確実に額割れするから見た方が良さそうなんで。

この値崩れのご時世、「100万のキャンドル」を前方席で見てみたいという願望もちょっとだけ残ってるんですが、それ以外のシーンが見切れそうで、なんだか二の足踏んでます。

ちょっと心がすさんだんで、15日に発売された『ゴルフ・ザ・ミュージカル』のCDで由美子さんと堀内敬子さんの美声に酔いしれてお口直ししてるのは秘密(←なんじゃそりゃ)

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『マリー・アントワネット』(2)

2006.11.12(Sun.) 17:30~20:45 帝国劇場S席 1階Q列センター

MAチケット消化しましょう月間、2回目観劇。今日含め残り5枚。

何というか、普通に楽しめました。2回見て初めて物語のつながりが見えてきたし、言いたい事もとりあえず伝わってきました。
1回でそれを伝えなきゃリピーター増えませんってば・・・・

あとは音響が帝劇でかなりいい方の席にあたってたせいもあるかもしれません。今回、最前列はセットの見切れがありますし、2階席は客席降りが蚊帳の外という、2006帝劇のお決まりパターンなので(ミーマイ⇒V⇒MA)。

タイトルロールがここまで感情移入できないキャラクターの作品を私は初めて見たのですが、何というかタイトルロールのメリットを全然享受できないってのも、かなり気の毒なのかなと。
その分、もう一人のMA、マルグリットに感情移入できるかできないかは、この作品にとっては大きなファクターになるという感じ。

マルグリット役は初回見た新妻さんと、今回見た笹本さんのWキャスト。
この2人はエポニーヌ(レ・ミゼラブル)、キム(ミス・サイゴン)に続いて3度目の同役で、いまだ同じ舞台に立ったことがないわけですが、私見だとこの2人、複数キャストだと1作品ごとにどっちが好きかが入れ替わる役者さん。

具体的にはエポニーヌは笹本さん、キムは新妻さんが好き。となると今回は順番的には笹本さんの番ですが、その個人的な法則そのままに、この役、笹本さんの当たり役に思えます。

新妻マルグリットも嫌いではないのですが、あの一本調子に「自分の境遇すべてに怒ってます」で攻められると、この作品ものすごく単調で退屈この上なく。
笹本マルグリットは得意の芝居表現を随所に織り交ぜ、「怒りで動く」シーンと「迷いながら自分の答えを見つけようとする」シーンの繋ぎがすごく分かりやすく、1幕・2幕がぶつ切れでなくつながったのが何より良かった。
歌声も、感情を入れ込んで語尾を震わせながら歌う彼女の歌い方が好き。

新妻マルグリットと笹本マルグリットは正に好対照の役作りだったわけですが、2人比べてみた印象はというと、2003年レミで言うと、以下のイメージ。

新妻マルグリット:坂元アンジョ
笹本マルグリット:吉野アンジョ

新妻マルグリットは歌声が最大の武器で、歌声で民衆を煽動するが、その背丈から民衆に埋もれてしまうのがもったいない。
笹本マルグリットは歌声こそそこそこだが、存在感に加え、凛としたリーダーとしてのたたずまいが民衆を煽動する説得力を持たせてくれる。

・・・・えーと石投げないでね(笑)

以下ネタバレすたーと

初見で新妻マルグリットを見たときに違和感のあった「マルグリットの一貫性のない動き」が笹本マルグリットではほとんど感じられなかったのも意外。
とはいえ気になるシーンもあります。

マルグリットは民衆を煽動する役割ですが、煽動しても女たちは動かない。オルレアン公がポーマルシェに指示を出し、お金をばらまくことで女たちをベルサイユ宮殿に行進させる。しかも先頭にマルグリットを立たせる。
マルグリットは「正義」を叫ぶけれども、お題目では人を動かせない、しかも自らはその行進の先頭に立たせられる。アントワネットに屈辱を与えられたこと以上に、これは屈辱以外の何者でもないわけで。

フランス革命当時、時代背景的には”女たちが立ち上がる”のはありえないことだし、マルグリットにしたところであの時代では”男たちの操り人形”でしかありえないんだろうけど、同時代のジャンヌダルクの印象をマルグリットに重ねすぎたのかな、とか思う。

マルグリットは勢いはいいけど実は自分の力で民衆を動かしてはいなかったことに気づいて、ちょっと意外。笹本マルグリットは凛々しくて男らしくて(←なんか褒め方おかしいが)造形的にも惚れ惚れするのですが、その実「あの時代を生きたただ一人の平凡な少女」でしかなかったのかなと思うと、少しつまらなくもあったりします。「時代を動かした少女と、時代に翻弄された王妃との、数奇な運命に彩られた表裏一体の世界」を見せてくれるものだと思っていたので。

「正義」に生きつづけた少女が、革命の波の中で自らの正義を実現できずもがき続け、対する王妃は「私」を貫き通した結果として革命の波の中で処刑されるのは何とも皮肉。
あの時代の「女性」としての限界を見せてるようにある意味思えたりもしました。

アントワネットが裁かれる場で、フェルセンに渡された手紙の存在を否定したマルグリットの「心の揺れ」はちょっとした衝撃。結果的にアントワネットが『女としての尊厳を汚される』無実の罪を着せられることになり、民衆と革命の欺瞞を表現してるわけですが、なんだかこの辺凄く分かりにくい。

「民衆が愚か」なのはわかるし「革命が正義」と限らないのもわかるんだけど、この辺のマルグリットの心の動きがあっちゃいったりこっちゃいったりしてるから、追いかけるので精一杯。
終わった直後には「アントワネットは裁かれて当然よ」だし、一体全体あなたの本心はどこにあったのと。

マルグリットにしてみれば、アントワネットへの憎しみと、無実の罪を着せられたアントワネットへの同情は別物、「自らの正義」と「革命が志向した正義」とは別物なのだろうけれども、じゃぁマルグリットが目指した正義は何だったのかが語られてないから、尻切れとんぼに見える。

アントワネットは断頭台の露と消えたわけだから、「人間の愚かさ」を心底味わったマルグリットが、今後どう生きていくかに存在価値があるのではないかと思う。

というか、正直、MAのエンディング、人多すぎ(笑)。
というか冗談を言うつもりはなく、最後に言わんとしているテーマが全員違ってるから、最後の歌い上げのテーマが全然シンクロしてないように思えます。

同じウィーンミュージカルの『MOZART!』だと「影を逃れて」に役それぞれの「影」を投影して、客も自らの「影」をそこに見て・・・・というシンクロ感とダイナミズムとカタルシスがあるんだけれども、MAのエンディングはオルレアン公、ボーマルシェ、カリオストロ、そしてマルグリットと、「この時点で同じメッセージを出すのはどう考えても無理でしょ」メンツが最後に歌い上げるから、聞いてる方が混乱しまくる。なんだか言いたいことが収斂しきってないタイミングでぶったぎった感じ。

2度見た感想は2度とも同じで、「あと30分ぐらいあったんじゃないですか、元の台本」ってところ。

『ミュージカル「マリー・アントワネット」の真実・200枚の付箋が語る壮大な実験とは』

とかいう本出しません?(笑)

あ、でも曲はすごくいい。
「流れ星のかなた」のアニエスの慈悲深い歌声に、マルグリットの広がりのある歌声、所によりアントワネットの澄み切った歌声。「100万のキャンドル」のマルグリットの力強い叫び声、「心の声」の凛々しくも頼りがいのあるマルグリットの声、「すべてをあなたに」のフェルセンの貴族のふるまい満開の振る舞いと声、「もしも鍛冶屋なら」のルイ16世の頼りなさに混じる本音が痛ましくも心に響く声。
どれも結構好き。(曲の目立ち方からいって明らかにこの作品の主役はタイトルロールじゃなくてマルグリットだよなぁやっぱり・・・・)

役者さんも凄くいい。
井上芳雄氏のかっこよさには惚れ惚れするし、土居裕子さんの無償の愛には感動するし、どの人もいい仕事してるのに、作品として絶賛にならない不思議。端的に言うと「言いたいことがまとまってない」ことが全てのような気がします。

曲がいいからCD早く出してリピーター確保しないとまずいんじゃないかなと思う。
この日ソワレ、終演後チケット売り場は開いていたけど、チケット売り場に行ってる人は本当にごくわずかだった。

あまりの後味の悪さに「見るのは1回でいい」という声が多く聞かれるこの作品、これで6ヶ月もやることがけっこう信じられなかったりします(帝劇2ヶ月・博多座1ヶ月・梅芸1ヶ月・帝劇2ヶ月)。役者の皆さん好演してるのに、なんだか力が出し切れないような感じでもったいないんですよね。

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『マリー・アントワネット』(1)

2006.11.5(Sun.) 17:30~20:45 帝国劇場2F 下手側B席

帝劇発、ワールドプレミア。
というお題目への期待へとは裏腹に、聞きたくなくても聞こえてくるあまたの評判の数々。
百聞は一見にしかず、と一昨日と全く同じ思いで、「ダンス・オブ・ヴァンパイア」以来3ヶ月ぶりの帝国劇場へ。

よく考えてみると、今年見た作品は劇場問わずハッピーエンドか、そうでなくても大団円作品ばかり。
『HUMANITY』(5・6月、新宿コマ・大阪フェス)、『ミー&マイガール』(6月・帝劇)、『ダンス・オブ・ヴァンパイア』(7・8月・帝劇)、『ゴルフ・ザ・ミュージカル』(10月・パルコ)と並べると、ストレートを1本も見てないことに気づきます。

とりあえずしょっぱなからネタバレありです。
つかエンドはあまりに有名だからネタバレもへったくれもない気がしますが(苦笑)。


悲劇的なエンド、自分は嫌いではないですし、ストレートも好き。
なので、今回の『マリー・アントワネット』も、周囲で言われるよりは芝居としては納得できるものがありました。演出の目的とか作品のテーマとか、まぁ言いたいことはなんとなく伝わってきます。

でも、これってミュージカルですよねぇ。
帝国劇場ですよねぇ。
心構えがあって、芝居として見に行ったから個人的にはダメージ少なかったけど、何しろ曲の盛り上がりが全然感じられないから、音楽に身を委ねるカタルシスがまるでないのが致命的。
ミュージカルって音楽の力を借りて空間を盛り上げさせられるのがメリットだけど、それを全然生かしてない。


動画で挙がっていた「100万のキャンドル」とか「心の声」とか、メロディとしてはいいし歌詞も好き、でも印象に全然残らない。群集のエネルギーも、同じ帝劇ならレミゼやサイゴンやSHIROHで味わったものを欠片も感じさせてくれない。

作りが悪いとはさほど思わないし、役者はいいし、でも悲しいかな登場人物に感情移入できないのがこれほどまでに辛いとは。

タイトルロールのマリーアントワネット役の涼風真世さん。
4作目(イーストウィックの魔女たち⇒あずみ⇒ミー&マイガールに次ぎ)ですが、一幕のあの高飛車な史実キャラが災いして二幕で感情移入するのに時間がかかって。
ただ、身分不相応な力を持ってしまった世間知らずの少女が、精神的に子供のまま大人になってしまった、ただそれだけなのかなと思った。それで罪が減ぜられるわけではないにしても。

二幕の母としての凛とした感じは良かった。国を治めるにはただただ不相応すぎても、一人の母親としては、相応にしっかりしていた。皇太子を失った時の「国は希望を失った」という言葉に対するロペスピエールの「あなたが希望を失ったのです」という言葉のあたりから、マリーアントワネットは王妃としてではなく、母親として生きようと思ったのかな、と感じたり。

マルグリットアルノー役の新妻聖子さん。
事実上の主役となるこの役、マリーアントワネットと同じイニシャルを持つ少女が、革命闘士として、貧しさに辱められた過去の恨みをエネルギーに、民衆を引っ張っていく役。

彼女のミュージカルは皆勤賞の私(レミゼ⇒サイゴン⇒マドモアゼル・モーツアルトに次ぎ)ですが、今回はちょっと期待はずれだったかも。
歌いまくりで大変なのはわかるけど、それは元々役者としての彼女のセールスポイントな訳だし、感情の起伏がなくて直線的だから、マルグリットの迷いとか勢いとか、そういったものを読み取りにくい。
その辺は脚本的に支えてあげなきゃいけない部分だと思うのに、正直役としてかなり薄いというか、役者の力量に過剰に頼った脚本に思えて、彼女には荷が重かったんじゃないかなと思う。

帝劇の広さに、このMAの中でマルグリットが持つべき存在感ということまで組み合わせると、新妻さんはいかにも歌だけが頼りという感じで、存在感として自分をより大きく見せることまで見込めない感じ。パルコで見た「マドモアゼル・モーツァルト」では、男っぽさと凛々しさが光っていたけど、それでさえ存在感ちょっと危ないところもあったから(MAにも出てる、当時相手役の広田勇二さんの方が光っていたシーンがいくつか)、パルコの4倍の客席の帝劇で同じ役回りを持たせるのにはかなりの無理があった気がする。

あと、背は小さいよねやっぱり・・・・
役者さんの中には実身長を大きく見せる技術を持った人がいるけど(私的な印象では市村正親さんがそれにあたります)彼女はそういう技術持ってないから・・・・

この辺は来週、笹本さんを見た上でどう感じるかかなと思う。

その2人を支える各キャスト、一番楽しみにしていたのはアニエス役の土居裕子さん。初見ですが評判聞いて楽しみにしていました。慈愛あふれるシスターの役にぴったり。マルグリットの暴走をたしなめるあたりも、包み込むような歌声はうっとりします。いかんせん物語がマルグリットの暴走と同期を取って動いていき、アニエスの居場所がなくなる関係上、2幕はほとんど出番がなくなってしまうのが残念。

ほかキャストでいいなーと思ったのはルイ16世役の石川禅さん。観劇3作目(アニーを銃を取れ⇒デモクラシー以来)ですが、なんであんなに気の弱い役が似合うんだか・・・・
マリーアントワネットにぐーの音も出ない感じが、いかにも不相応な役回りと時代に恵まれなかった主君だなぁと。鍛冶屋の歌は最強。癒されましたよ。

というかこの作品の一番キツイところは気の抜きどころがないところ。その点ではミュージカルではなく完全なストレートプレイ。(演出家氏はミュージカルの演出経験がないと。なるほど)

張り詰めたテーマに張り詰めた空間、音楽は空気を癒すのではなくBGM、歌も音楽としてというよりはBGM付きの台詞として存在しているので、とにかく真剣に向き合うと疲れてしょうがない。

基本的に舞台作品というものは対峙するのにエネルギーを必要とするのは分かるんですけれど、何せこの作品は結末も有名でいわばバットエンドだし、前述の通り音楽のカタルシスはないしで、精神的にきついんです。考えさせられる作品は好きだけど、肩の力を抜くシーンもないと、3時間ほぼぶっ続けで緊張を強いられることを考えると、体調が悪い時にはとても見られない作品です。

まぁ癒しといえば山口祐一郎氏が演じるカリオストロの横断歩道黄色手旗も和むけど(笑)。

そのカリオストロ、この作品では「この世界を意のままに操る錬金術師」となっているんですが、実際のストーリーテラー(山路和弘さん)、悪巧み役(高嶋政宏さん)と作品的な立ち位置が交わりまくって存在がわかりにくいったらないです。

帝劇4ヶ月(11・12月、4・5月)、博多座1ヶ月(1月)、梅芸1ヶ月(2月)の計6ヶ月(単純計算で40万席ぐらいある)は山祐氏の動員力をもってしてでないと埋まらないという意味かもしれないけれど、作品の出来的にも後から付け足した感じで、バランスが悪いように思います。
むしろきっぱりさっぱり、その役自体がない方がわかりやすい気がします。

山祐氏の今回の曲もさすがに難しそうな曲で、氏でしか歌えない感じがありますけど、M!のゲイカとかV!の伯爵とか、「あえて山祐氏がそこに存在しないと作品自体に力が漲らない」という感じではないのだから、動員力に期待して-なんていう本末転倒な話は止めたほうが良かったのではと思います。

というのは、最初にも書いたのですが、お客は『ミュージカル』を期待して見に行って、『芝居』を見せられて帰ってくるわけです。であれば初めからそれを公言しておくべきだったのではと思います。
土居さんや山路さんだけなら芝居系をやるというのはわかるけど、大多数の出演者はミュージカル系の人だし、何より帝劇のメインはミュージカルな訳で・・・・。

2幕の歌詞も平気で「ギロチン」とか入れてる訳で気持ち悪いというか、何というか、非常識というか、つかあのサイゴンでさえ、SHIROHでさえそんな直接的な表現使わなかったのに、芸がないというか何というか。
レミだってコゼ&マリしか生き残らないし、サイゴンは主人公が自殺しちゃうし、SHIROHは1人残して皆殺しだし、でもこの作品ほどの後味の悪さは残らないわけで。

やっぱり希望が欲しいなと思う。
いくら暗い物語でも、レミならコゼ&マリ、サイゴンならタム&エレン、SHIROHなら寿庵と、現世に希望を残した存在がいたわけで、きっと天に召された人の思いを、生き残った人も受け継いでくれるよね、というのが感動させてもらえたわけで。

今回の作品、タイトルロールがあの結末になるのはわかるわけですよ。有名だし。
でもそれならマルグリットはあんな中途半端な気持ちで終わっていいの?。
これは役者というより脚本として。

憎しみは何も生まないし
自らが信じてきた革命は仲間と信じていていた人々によって汚されて
正義なんてどこにもないかもしれないけど
それでも何かを信じないと生きていけないのが人間じゃないかと思う

マルグリットはマリーアントワネットの存在により何か信じるものを得られたのか
何かが変わったのか、それが読み取れなかったからマリーアントワネットの存在が無に見えた
マリーアントワネットは悪ではあっても無知としての悪であったのだと思うから、その存在がもう一人のMAであるマルグリットに受け継がれていて欲しかった

だから最後、あんな形で中途半端に終わらせては欲しくなかった。
演出家サイドとしては「あとは客それぞれが考えるべき」なのかもしれないけど、明らかに尻切れトンボでメッセージ性が弱すぎる、というかほとんど意味がわからないうちに終わる。

とにかく2幕は不快になるぐらい直接的な表現が多いから、作品としての終わり方が「早くこの作品から離れたい」と思ってしまうから、考えるまで思い至らない。
考えてもらおうというのであれば、まだしも違う掘り下げ方があったんじゃないかと思えてしょうがない。

それと心配なのは役者さんにすごいプレッシャーがかかってそうなこと。
何しろ6ヶ月のロングラン、代役が存在しない過酷なレース。いかにも負担が大きそうなマルグリット役、2人とも丈夫に見られているだけにかえって心配。
緊張の糸がそこまで持つはずなく、若いだけに役と役者の切り離しの技術を豊富に持っているわけではないので、2人ともの完走はきついような気がします。

とこんなまでに書いたこの作品、実はあと5回見に行くことにしてます(笑)。
だって売れないんだもん(爆笑)。

自分的には追加はしないけど、ちょっと興味深いので付き合うことにします。
嫌なシーンには目を背けて。

最後にこれだけは言っておきたいこと

カーテンコールにタイトルロールをずっと寝っころがらせておくってどういう神経してんだ(怒)

役としてはそれは自業自得の悪女なのかもしれないが、それだけでないことをわざわざ2幕で表現してただろうに、しかも仮に役に罪があってもそれを演じきった役者に罪があるわけがない。

全身全霊で演じきったタイトルロールにあの仕打ちという時点でこの作品に根本的に愛情が湧かないのが実は本音。

それでいてカーテンコールのトリはこれまた本人に罪はないけどタイトルロールじゃなくて祐一郎氏なわけだし・・・・本編で微妙な役割のままカーテンコールでトリだけもらったって祐一郎氏も嬉しくなかろうし、それ以前に

だからタイトルロールは誰なんだ

って実は本気で怒ってます。
(涼風さんファンではないがこの件は大変同情申し上げます)

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『ペテン師と詐欺師』

2006.11.3(Fri.) 13:30~16:15 天王洲銀河劇場 3F下手

ホリプロが買収、アートスフィアから劇場名が変わった天王洲銀河劇場のこけら落とし公演。東京のほぼ最後の公演を見てきました。
贔屓以外の公演は後半を見るようにしているのですが、その時困ってしまうのがネットのネタバレ度。当ブログもそこそこ気をつけているつもりなのですが、聞きたくなくても評判というのは聞こえてきてしまうわけで(笑)、もろもろの理由で気乗りしないまま、天王洲へ向かいます。

しかも、イメージ的に遠いんですね天王洲。その実、渋谷から15分、新宿から20分、池袋から25分(いずれも埼京線・りんかい線直通電車)というのは帝劇とぴったり同じ時間なんですが、駅から10分弱歩くということもあり、心理的な壁が正直あります。

公演中に大ヒットでもないのに再演が発表されてる作品というのも、何か釈然としないものを感じますしねぇ・・・

天王洲はアートスフィア時代に井上芳雄氏のコンサートに笹本玲奈嬢目当てで来て以来の2度目ですが、近代的なビル空間が景色としては結構好きだったりはします。

で、見た感想ですが。
うん、予想したより良かったです。最後のオチもさすがブロードウェイヒット作、スパイスが効いてたし、スパーンと気持ちいい余韻で帰れる芝居は好きです。

でも。
この劇場、改装する前も後も綺麗でいいんですが、何でこんなに台詞が通らないんでしょう。3階席ということもありますし、曲の故もあるのでしょうが、とにかく歌詞が全然分からない。音楽が響きすぎて、正直、ショーとかコンサート向きな構造に思えます。

キャスト別によしなしごとを。

鹿賀丈史さん。「デモクラシー」以来2度目ですが、ダンディさにお茶目さが入り込んで最強。お金持ちでペテン師なんですが、それが嫌味にならない良さがあります。

市村正親さん。何作品目だか数えないとわからないぐらい拝見してますが(※1)、今回はちょっと痛かったかな。鹿賀さん演じるペテン師に弟子入り志願する”若者”の役なだけに、若々しさを出そうとする空間がちょっと寒かった・・・・

※1 「モーツァルト」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「デモクラシー」「ヴァンパイア」で今回5作品目。男性の俳優さんでおそらくもっとも多くの作品で拝見してる役者さん。

高田聖子さん。今振り返ってみてこの方の芝居は「SHIROH」と「真昼のビッチ」しか見てないことに気づきました。”ミュージカル心配でたまらないんですぅ”とおっしゃってたんですが、さすが”新感線の看板女優”の名前は伊達ではないです。
芝居の間の取り方が鹿賀さん・市村さんの大御所の前でも引けを取らないぐらいに上手いから、本来の役以上に役にはじけてて、その分作品にも盛り上がりを与えてました。さすがやんちゃくれ(何のことだか)。

愛華みれさん。実は初見。前半はアンサンブルに隠れて存在感が薄い気がしましたが、鶴見さんと絡むようになってから俄然魅力的に。変に役的に暴走することもなく、まぁ納得。

鶴見辰吾さん。初見ですが、役者的に芯の強さを感じます。主演2人と堂々と亘り合う演技といい、出過ぎない存在感といい、いい役者さんだなと思いました。鶴見さんで印象的だったのは役としても良かったのですが、作品パンフレットのインタビュー。正直感動しました。

・「人を騙してはいけない」というのは現実だけど、「時には人を騙してもいい」というのも真実
・役者は思ったことが意外と表情に出る職業
・役者にとって舞台上の出来事や感情は「現実」ではないけれど「真実」

インタビューで表現される役者の言葉って、役者の大きさを表現してると思うので、インタビューで面白い(=深みのある)ことを言う役者さんって例外なく好きです。

役者さんの力って、役に自分の人生をのっけて大きく見せてナンボだと思うんで、「何も考えないで演じてます」とか言われてしまうよりも、「役者として人間としてこういうポリシーでやってます」と言ってくれたほうが、役を本来の役以上に大きく見せてくれそう。で、そういう期待が裏切られたことは今まであまりなかったりします。今後も気にしていきたい役者さんです。

さてさてこの作品のヒロインさんを最後に語ってしまいます。奥菜恵さん。
お金払って見るのは初めてですが、よくよく考えるとデビュー15年来名前を知っているのに、テレビでさえ実際の演技を見たことがない、今まで私には縁がなかった女優さん。
今まではどちらかといえば私生活でいろいろあっても、役者さんとしてはそれなりに評価されてたという認識でしかなかったのですが、あれだけ色々観劇記で書かれていれば見たくなくても入ってくるその評判。

百聞は一見にしかず。

見ました。観客が10人中8人まで同じこと言う時は真実なのねと(笑)

一般論としての個人的な印象ですが、歌と演技だと、磨かなかった時に結果が残酷なほどに見えるのは歌だと思ってます。演技が元々上手な人が劇的に下手になるとか、その逆というのはあまり接したことがないのですが、歌だけは磨かないとガクンと魅力が落ちる印象があります(あくまで私見です)。

今回の奥菜さんの出来には、正直「磨き忘れた歌」でミュージカルに出てしまった、そういう印象を持ちます。ただでさえ台詞が通らないこの劇場で音楽から外れた歌を歌えば他の劇場以上に目立つわけで・・・・。芝居勘だって悪くないはずなのに、役に萎縮してる感じがありあり。演技もかなり雑な出来で、正直、ヒロインとして作品を支えることができたとは思えませんでした。

私生活を役者に投影しちゃうのはよくないとは思うけど、前半のクリスティーン(奥菜嬢が演じる役)は演じてる人が演じてる人だからカマトトぶって見えてしまうというか、10年前ならともかく今の彼女に清純さを仮想できるかというと正直・・・・

その辺は、豹変振りを見せるところがこの作品のキモだから、最初の清純さに軸を置いてラストに意外性を持たせるか、逆にするか、キャスティングの腕の見せ所なんですけどね。

ミュージカル界の二大大御所の鹿賀・市村コンビの真ん中で歌う栄誉にあずかるポジションに、彼女をあてなければならないほど日本のミュージカル女優の層は薄いの?とか思ってしまうけれど、よくよく考えてみると「知名度」と「役との相性」に「年齢」(20代後半~30代前半)ってものをヒロインに求めると、あそこに立てる人はあまり思いつきません。

知名度抜きなら2003年コゼ2人(河野由佳嬢、剣持たまき嬢)とか思いつくし、時期さえかぶってなきゃうちのご贔屓さん(高橋由美子さん)でも見てみたかった役なんだけどそれもありえませんし(※2)。

※2 アイドル時代にホリプロの某大御所タレントさんと行き違いがあった関係上、ホリプロ主催の公演や天王洲銀河劇場の公演に出演することはおそらくこの先ないです。

ちなみにどうでもいい余談ですが、高橋由美子さんは今回の騙し騙されの舞台になる南フランス・リヴィエラをテーマにした曲を出したことがあります(1992年『コートダジュールで逢いましょう』)。

芸能プロダクションが劇場を持つというのはかなり珍しい試みではありますが、ホリプロは最近自分のところで公演を打ってもいたので(ジキル&ハイドとか)その延長上にあると思えば不自然であるわけではありません。
でも思ってしまうわけですよ。芸能プロダクションはたとえ大手であってもというか大手であるからこそ、他の芸能プロダクションとの利害関係の対立があるわけで、どんなにいい役者さんでも、ライバル会社の役者なら使わないとか、そういう話が出てきてしまいかねません。

その辺を乗り越えてナベプロのマルシアさんとハロープロジェクトに宝塚の演出家呼んできて公演をやってしまうアミューズ(新宿コマ劇場を持ってます)の懐の広さ。ぜひ、ホリプロにも見習ってもらって、「ホリプロが劇場を持ったから作品の幅が狭まった」なんて言われないよう、頑張って欲しいなと思います。

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