『愛と死をみつめて』
2006.3.18(土)、3.19(日)
テレビ朝日系、21:00~23:24
ひたすら番宣の嵐でありながら、途中で番宣を見るのを止めたこの作品。
本番一発勝負の鑑賞をすることにしました。
あまりにネタバレで感動もなくなりそうだったんで。
純愛物のルーツといわれてTVドラマ、映画化された作品のリメーク版。
ストーリーの詳細は公式ページを参照。(4月ぐらいで消えそうな気もするけど)
主人公は難病(軟骨肉腫)に冒された少女(ミコ・広末涼子)と、阪大病院で出会った学生(マコ・草彅剛)の恋愛物語。
なぜ見る気になったかはまた後に置くとして、予想以上に広末さんが役にぴったりでちょっとびっくり。どんな役でもこなせるタイプではないと思われるのですが、役が上手く嵌った時は、理屈抜きで好感が持てます。事務所が大手じゃなければもっと素直にプッシュできる気もしないでもないのですが(苦笑)。
難病に冒されながらも必死さを隠して何とか前向きに生きようとするミコの姿が良い。
とはいえ、そこに影を感じてしまったりして。
主治医を演じたユースケ・サンタマリア氏(なかなかの名演でした)は若手の医者ということもあり(28~29歳ぐらいの設定らしい)、「嘘が付けない性格」。
何しろ「患者の痛みに何も感じなくなったら、医者は終わりだ」と言ってしまうあたり、すごく”熱い”お医者さん。
そんな真面目なお医者さんだけに、当時は難病だったということもあって、病気を治してあげられないもどかしさに更に苦しむことになります(それを支える奥さんが木村多江さんというのもまたまた凄まじくハマッたキャスティングですが)。
患者(ミコ)は表面的にはいい患者さんに見えるわけです。
「私は大丈夫ですから」とミコに言われるのですが、もうそれは強がりにしか見えなくて、でも主治医として医者として、自分は何も役に立てなくて、実はすごく辛いんだろうなぁ、と思う。
泣き叫んだり、感情をあらわにされる方が、医者としてはまだ気持ちの持ちようがある、とどこかで聞いたことがあるのですが、患者がいい人過ぎて、それが難病だったりすると、却って自分の無力さに打ちのめされるようなところがあるような気がする。
「ミコは同情や慰められることを嫌う。同情や慰めなしに患者と向き合う難しさを常に感じてる」と、妻に告白しているし。
ユースケ氏はそのあたりの辛さを表情で表現されていて、無言ながらも「何てオレはダメな医者なんだろう」という思いが直接伝わってきて、ミコよりもこの主治医が不幸な気さえしてくる始末。
そこまで有能とも思えない若手の医者を充てるというところが、当時は「治る」と思われていなかったんだなぁと思われて、尚更胸に詰まるものがあります。
ミコは積極的に同室の患者さんの面倒も見て、まさに病院のアイドルのような位置に収まることになります。何せ同室の患者さんたちがユースケ氏演じる主治医に「あんないい子なんだから、何とか助けてあげて」と嘆願するまでになっています。
それ見てるともう。
親切の押し売りというか余計なおせっかいというか、そこには善意は確かにあるのだろうけれど、それに直面する人(ここでは主治医)に対しては残酷な仕打ちでしかないという現実が、ミコの不幸さより際立って不幸に思えたりしたのです。
善意が事実上言葉の暴力に入れ替わってしまう、むしろそこに「偽善」の香りを感じずにはいられなかったりします。
ミコは病院のアイドルになる前、というか病院に入る前も造り酒屋のお嬢様として育ち、自らに対して「悪意」という感情でぶつかってきた人がおそらくいなかったであろうところに、唯一の例外のキャラクターが、村中智美役の高橋由美子さん。
・・・・2夜連続5時間をフルで見つづけた理由の白状、終わり(笑)・・・・
ミコの同室に智美の母親が入院しており、「看病もしない」(ミコの同室の患者談)智美に代わり、「頼まれてもいないのに」ミコが看病をしています。
それをひょんな調子から知ってしまった智美は、病院の屋上でミコに掴み掛らんばかりの剣幕で襲い掛かります。
「いい子ぶらないで。人の面倒を見て娘の私を悪者にするつもり」と。
ミコの同室の患者に「面倒は私らが見るから見舞いになんて来るな」と言われたこともあり、「毒づくだけは毒づいても顔は出していた」智美は顔を出しずらくなり、病院には行けないまま。
ある朝容態が急変し、そのまま死に目には会えないままとなった智美は、母親のいなくなったベッドに対し、号泣し人を憚らず泣き叫ぶことになります。
(一度病院の前に入るのをミコに見つかって声を交わしていることからして、おそらく智美はかなりの回数病院の前には来ていたと思われ、そこで母親の死を知らされたと思われます。)
自分はここの件が一番胸に堪えたというか、泣けてしまった。
ミコのいい子ぶり方がちょっと鼻に付きはじめていただけに、周囲が全員応援団みたいで、智美1人が悪者になっているのが、微妙な構図で。
ミコは智美に対して、「あなたは悲劇のヒロインぶっている。私は悲劇のヒロインのまま死にたくない」と告げていたりするのですが、それがある意味絶妙な皮肉で。
ミコにとって母親を悪く言う智美は、「悲劇のヒロイン」に他ならず、母親を責めることで自らを「かわいそうな娘」としてその殻に閉じこもってるように見える。
智美にとってミコは、母親を面倒を見ることで、患者なのに・いい子なのに病に倒れる少女、という「悲劇のヒロイン」に酔っていることでしかなかったりする。
お互いの存在がお互いにとってのアンチテーゼになっている感じ。
(最近のドラマならミコが去った後、智美が「あんたこそ悲劇のヒロインじゃないの」って捨て台詞を吐くところでしょうが、今回の作品、行間を読ませるというのか、あえて説明しないで済ませてる演出と脚本が素晴らしいです)
公式HPにあるのですが、智美と母親の間は”複雑な家庭関係”(結局ドラマ中では一切触れられなかったけれど)とあり、素直に看病できない感情があったらしい。
そんな事情をさておいた上で、「自分も病人なのに、他人の面倒を見れるミコはすばらしくいい子」とだけ見ている空気が、”他人の事情”おかまいなしの「表面的な誉め言葉」に思えて、空々しくて。
そんな「偽善の積み重ね」が破綻したのがこのシーンで、「毒づくだけ毒づいていても」それが智美と母親の間の「交流」であって、他人であるミコや、その同室の患者が、口を出すようなことではないと。
「他人の家には、他人が入り込めないいろいろな事情がある。他人がそれを非難することはできない」(※1)という言葉が、これほどまでに胸に突き刺さるとは思わなくて、心底泣かされた。
(※1:『時の輝き2』講談社ティーンズハート、折原みと先生)
ミコは自らの偽善の”罪”を理解できたはじめての体験だったろうし、智美がことここでミコをなじらなかったからこそ、ミコは深く傷ついたんじゃないかと思う。
それはミコが主治医に、強がって笑顔で気持ちおもんばかり、弱音を吐かずなかったことが、主治医にとっては実はものすごい苦しみであったように。
智美がミコにこんなことを言ったとしたら。
「あなたのせいで私は母親の死に目にも会えなかったのよ、確かに私は娘として看病はほとんどしてあげられなかったけど、私には私なりの気持ちの示し方があったのに、それをあなたは邪魔したのよ、だから私はあなたに言ったのよ。『いい子ぶって』って。自分がいい子に見られるために、あなたは私と、私の母親の大切な時間を奪ったのよ」と。
ただ泣くしかできず、ミコを責めなじることもしなかった智美の号泣が、かえって智美のミコに対する断罪のように思えたし、ミコもその罪深さを感じたからこそ、智美の肩をそっと抱いたのだと思う(でもここの広末の演技はちょっと一押し欲しかった)
しっかし由美子さんがここまで出来るとはねー
演出も上手いけど。
空になったベッドを前にしてミコと顔を合わせたときの表情なんてまさに「ミコ眼中になし」って感じだし。
すっかり単発ゲストがおなじみになったけど(※2)、見るたびに難しい場面を任されてどんどん脇には欠かせない女優になってきてるのが嬉しい。
(※2)今回の「愛と死を見つめて」のプロデューサー中込氏のドラマは、この2年間で3回目。「電池が切れるまで」(2004年6月)のヤンママ役、「雨と夢のあとに」(2005年4月)の幽霊(偽母親)役に続く役。平凡な役で由美子さんを使わないだろうなぁと思ってたら予想通り、出番少ないのに滅茶苦茶難しい役にアサインしてくれて感謝。
広末さんも良かったし由美子さんも良かった。
ユースケ氏も良かったし悲劇物という割にいい感じで考えさせられて良かった。
最初テレ朝がアピールしてた「出版その後」がほとんど語られなかったのも蛇足が増えなくてちょうど良かった気がした。
物語の全体としては、マコはマコなりにミコを愛していた、ミコはミコなりに死を見つめながらもマコを頼りながら生きようとした物語、
その2人のお互いの感情は、どこかすれ違っていたところに、物語の物悲しさがあるように思えた。
ちなみにこの作品、時代考証がすごくしっかりしてます。
とりあえず自分の得意分野の範囲では
1)大阪~赤穂間の電車が113系湘南色
ロケ地は大井川鉄道ですので川の流れが違和感あるし、何より車内は完全に大井川鉄道ですが(笑)
2)郵便物の消印が非24時間制
現在、郵便物に押印される消印は「0-8」「8-12」「12-18」「18-24」の4段階24時間制ですが、この作品当時は『戦後型』表示と言われる「前0-8」「前8-12」「後0-6」「後6-12」の午前午後表示。
なかなか普通に芸が細かいです。
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