« 『SHIROH』を語る。(22) | トップページ | 『SHIROH』を語る。(24) »

『SHIROH』を語る。(23)

やろうと思ってやってなかったテーマ。
あえて、もう一つの世界から、『SHIROH』を語ります。

第11回でも書きましたが、現在、小学館から出ている月刊誌『flowers』という雑誌に、『AMAKUSA 1637』という作品が連載されています(毎月28日頃発売)。
ちなみに作者の赤石路代さんも、『SHIROH』はご覧になったそうです。

今回の内容、1月28日発売の最新号(3月号)のネタまで含めたネタバレが入っています。
お気になさる方は回れ右をお願いします。


●天帝の使い
『AMAKUSA 1637』の四郎は、現代の女子高生がタイムスリップで1637年の天草に飛ばされてしまったという設定。あまたの奇跡を起こし、皆の希望の星として一揆軍のトップに立っています。
『SHIROH』の役柄で言うと、四郎とシローを混ぜに混ぜた人物造型でしょうか。
シローの純粋さと、四郎の苦悩と、四郎の剣術を併せ持った女性(剣道の腕では全国トップクラスという経歴を持ってます)。

※まぁもともと『SHIROH』は天草四郎を2分裂させて四郎とシローにしているから当たり前ですが。

 奇麗事を平然と言い放つ、類まれなるピュアさ。
 唐津軍との戦闘の最中、台風が襲来。
 その最中、荒れ狂う海から敵を助けようと海に漕ぎ出す。
 その行為は敵の大将の心さえ動かす。

もう連載が4年を超えている作品なのですが、個人的にはこの作品があったからこそ『SHIROH』に嵌ったのかな、と思えないこともなく。
『奇麗事だよ』『そんなことあるわけないし』『偶然起こしすぎ』とか思ってはいたのです。
でも、必死に生きようとする気持ちというか、スピリットの部分は同じかな、と。

<以下わかりにくくなるので『AMAKUSA 1637』の四郎はもともとの本名、”夏月”で表現します。『SHIROH』の四郎は上川隆也さん演じる益田四郎時貞、シローは中川晃教さん演じるシローのことを指します。なお巻数は全て『AMAKUSA 1637』コミックスの巻数表記です>

夏月が語る言葉に、”みんなで幸せに生きのびよう”というものがあります。

ただ生きるだけではなく、”幸せに生きのびる”という言葉、
キリシタン軍の合言葉として、これほど相応しい言葉もないと思う。
『SHIROH』では、その思いがどんどん狂わされ、最終的に3万7千人全滅という、悲劇につながってしまったけれど、死に急いでしまったかのように見えるシーンのほんの前までは、皆の気持ちはまったく同じところにあったのだと思う。

夏月と対峙した敵は、史実そのものの大悪人として描かれていた
松倉勝家以外、夏月に心酔していきます(※)。

※『AMAKUSA 1637』では松倉勝家は本気で大悪人で人間の小さな小さな方として描かれてまして、夏月から逃げまくって、家老、ひいては妻にまで「情けない」と呟かれております。
何せ、剣を持たずに乗り込んだ夏月相手に、剣で襲い掛かって返り討ちにあい、殺されております。
その様を見た家老に「刀を持たなかったあの人に襲い掛かったのは我が殿だ。私はあの人に刀を向けることはできない」とまで言わせております(9巻)。

徳川の隠密である柳生十兵衛(『AMAKUSA 1637』にも登場しています)さえ、家光の命(夏月を生きたまま捕らえてくることを命じられている)と夏月の存在の間で心揺れます。

島原の困窮の原因は松倉家の圧政によるものとして有名ですが、『島原・天草の乱』と言われているように、天草も島原のそれに勝るとも劣らない圧政が語り継がれています。
天草を治めていたのは唐津藩・寺沢家で、天草・富岡城に城代を置き、天草の統治を任せていました。寺沢氏はかつてはキリシタンでしたが、幕府の禁政令と時を同じくして過酷なキリシタン弾圧を引き起こします。
この富岡城城代が、『AMAKUSA 1637』では八塚という人物。彼も同じく現代からのタイムスリップで天草に飛ばされ、寺沢氏に認められ城代となっています。
この八塚が夏月と出会い、その後、主人である寺沢を討ったことで、唐津藩が総がかりで富岡城攻めをかけます。
攻めるは唐津藩家老・杉島氏(こちらも史実の人です)。

杉島氏はかつて八塚に捕らえられた際、夏月と言葉を交わしています。
夏月は「あなたがたを殺したくはない」と言ったのに対し、杉島氏は「あなたが正しいのであれば、私を殺せ。それが戦いだ」と答えています(7巻)。

”相手を殺したくはない”という表現は、戦いの場には相応しくない印象を持ちます(※)。
がしかし、それは四郎にも通じる所があるというか、四郎はそういえば「敵を憎まない人」だな、と思い出します。
ただ唯一憎んだのは、多分、最後の最後、柳生十兵衛に対してだけだったのかな、と。
松平伊豆守に対しては”憎む”という感情よりむしろ、”怒る”という気持ちだったように思えますし。

※『夏月は「剣で人を斬れるが殺せない」、それが最大の弱点』、と八塚が語っていたことがあります(8巻)。

杉島氏が八塚との一騎打ちに敗れ、自ら死を選ぼうとした時、夏月はそれを止めます。

「生き恥をさらさせるのですか」と言った杉島氏に対し、夏月は
「なぜ生きることが恥なのです」と語りかけています(3月号)。

”皆で生きたい”その前には、敵も味方もない。気持ちが通じれば、それでいい。
綺麗ごとに聞こえなくないけれど、そこにはシローにも垣間見える、”純粋さを持つ人間だから言える、メッセージの強さ”を感じずにいられません。

ただ生きたい。小細工なくまっすぐにそれだけを願う。

夏月は
「人を殺して人を救うなんて正しいのかと思うけど、でも放ってはおけない」(7巻)
と語ります。

夏月は松倉勝家が領民達を斬首する光景を目の当たりにし、「誰も死なないようにと戦い始めたのに、それでも人は死ぬ」(7巻)と呟きます。だからこそ、「許せない」という気持ちが湧き上がります。
支配者に対する、純粋な怒り。領民と同じ目線に立つ気持ち。後者はともかく、前者は四郎にはあまりなかった場面だなと思います(1幕一番最初の「いんへるの」で主水と対峙してる時ぐらいしか表面に出てない)。
直接キリシタンと対決するキリシタン目付がことごとく”小役人”なので、四郎と比べるとバランス悪すぎるんですよね。真剣に対峙する必要もなく、下手するとあしらう程度で終わるという。
柳生十兵衛、松平伊豆守とでやっとこさ釣り合っていたということをふと思い出します。

そういえば、夏月・四郎に共通して言えることなんですが、剣が鬼神のように上手ければ、その剣の腕に溺れて傲慢になるとか、そういう話があって良さそうなものなんですが、そういう所が欠片もない。

剣術はあくまで自分自身、そして仲間を守るための”術”にすぎず、”人斬りの剣”ではない。

そしてそれだけの腕を持ちながら、自らの立場と、ひいては一揆軍の置かれていく状況に苦悩し続けるというのがまさに”生身の人間”だなと。
「3万人の命はとても重いです」と夏月が語っている言葉は、四郎にも相通ずるものであったのでしょう。”奇跡の力”をもつ者だけにわかる、「力」というものの怖さをまじまじと感じます。

そして「力」をもつ者が感情を無視できたとき、是非はともかく、どれだけ強いものか、ということを松平伊豆守の姿を見て思うのであります。

感情を捨てられなかった四郎と、感情を捨てた伊豆守。
戦としての勝負はついていたかもしれないけど、感情を最後まで貫いた四郎だからこそ、神は奇跡の力を再び与えたもうたのだと思う。

そして最後に残った寿庵。
理に生きながら最後まで感情を捨てられなかった寿庵だからこそ言える言葉。
あまたの悲しい出来事を乗り越え、感情を捨てず、すべての人の感情を乗り越えて語る様に「本当に強い人間」を見る気がいたします。

●軍師
夏月を支える軍師の役どころは、『AMAKUSA 1637』では英理という女性。全国トップレベルの頭脳を持つ設定で、中学校時代、クラスで仲間外れにされていたところを夏月に助けられて以来、夏月に心酔しています(もっと分かりやすく言うと「好き」なのですが)。
当然女性同士でありますので、英理も夏月への思いを
「私の思いは届くことはない」と呟いています。

一揆軍の参謀として、
「夏月を絶対負けさせはしない 私が夏月を勝たせる」
と固く心に誓っております。

細かい設定はともかく、キャラクターは寿庵とどぴったりリンクしております。冷静な判断力に代表される”キレの鋭さ”と、皆の感情を読み、さりげなくフォローする”情の細やかさ”といい、こんなに似た役作っていいのだろうか、というぐらい似ております。

八塚が一揆軍のメンバーを明らかに下に見た時に、厳しく指弾する様は、圧巻です。
「一揆軍は心一つになってなければいけない。そんなところから崩れだしたら、苦労するのは夏月よ」(9巻)と。

そういえば、帝劇初日で寿庵を見たときには絶句したんでした。
あまりに役設定が似すぎていて。

英理・寿庵の共通点というと、頭のキレからして「冷静沈着だが厳格すぎて感情が感じられない」という風になりそうなところ、なぜにか皆に対する深い愛情を感じるのですね。

確かに寿庵の愛情は四郎へ一直線ではありますが、四郎に向けてだけではなく、他の皆を包み込むだけの愛情をあわせ持っていたと思う。
それは四郎への想いとは別の内容の”愛情”ではありましょうが、それゆえに最後の場面が映えるのだと思う。シローに対しても優しく見つめながら、しかし必要なところでは頑として自分の意思を貫き通すあたり、シンクロするものがあります。

あともう一つの点として、軍師として冷静沈着にあって感情が激する部分。

夏月が柳生十兵衛に襲われているところを英理が見咎めて斬り付け、
「夏月を殺そうとしたら許さない、それだけは許さない」
「夏月のためなら人も殺せる」
とか言ってるあたり(6巻)、
『SHIROH』の寿庵にそういう面を表現しているところはないですが、そこはかとなき”激しい”部分があるのかなと。
言葉はないけれど、松平伊豆守と対峙する時の「怒りを身体全体に秘めた威圧感」は、通じるものがあるのかなと思います。
ただ、松平伊豆守の立場に対して、キリシタンの立場、”怒り”をぶつける言葉があって欲しかったというのが本音かも。

松平伊豆守の存在が、道理と使命を体現化しすぎて(それは演じる江守さんの力があってこそですが)、下手なことをすると「伊豆守の言いたいことも分かる。権力を持った者はこうして自我を殺して仕事に生きるのね」みたいな気持ちになってしまいそうで。

変な言い方だけど、伊豆守が卑怯じゃなさ過ぎるんですよ(あぁ言っちゃった)。
伊豆守の言い分に「支配する側の道理」を語らせている割に、キリシタン軍側に「兵を挙げる側の道理」が語られていないように思うのですよ。
戯曲では砂浜のシーン、実は寿庵の長台詞が2つほど入っていたりして、いかにも中島さんらしいフレーズでして、ああいう台詞でも良かったと思うけど、そうでなくても伊豆守とキリシタン軍が唯一対峙するシーン、闇討ちに走ってしまってキリシタン軍の正当性に思いっきり疑問符付いてしまう前に、キリシタン軍の意思を松平伊豆守にぶつけるシーンがあって欲しかったなと思うのです。

オランダ船の件で伊豆守から先手打たれる前に、伊豆守に対して怒りをぶつけるシーンがあったらよかったなと。

ただその辺りは、道理一直線の伊豆守と対峙したからこそ、その相手に対するしっぺ返しが最後の寿庵の”決め”につながっているという点もあるので、なかなか痛し痒しですし、伊豆守がああいう人物造型だったからこそ、作品として重みが出たことはまぎれもない事実でしょうし。

ふと思ったことなのですが、今回、新感線色の薄い理由として挙げられる”古田新太氏が出ていない”という点。
古田氏は今回、同時期公演のNODA MAP『走れメルス』に出演されていたために『SHIROH』への出演がなかったわけですが、古田氏が伊豆守をやらなかったのが初演『SHIROH』の方向性を決定付けたのかな、とある意味思います。

”卑怯”という要素を少なくとも表に出る限りまったく見せなかった伊豆守@江守氏に比べると、仮に伊豆守@古田氏となると、邪推かもしれないけどどことなく”卑怯”さが入り込んできそうな気がします。

同じ「悪」でも何かが違う。2人とも上手い役者さんで、存在で作品を左右するパワーを持った方ですが、「破滅的な悪」の古田氏と、
「破壊的な悪」の江守氏では、きっと作品の作りも違っていたのだろうなと思うのです。

さて、今回は英理の一番印象的だったフレーズで締めます。
「夏月がいなくなるのだけが怖い、
自分(英理)がいなくなるより怖い」(7巻)
という言葉が、
「四郎様がいなくなるのだけが怖い、
自分(寿庵)がいなくなるより怖い」

と寿庵が呟いていそうで、そのあまりの純さに心を打たれたりします。

|

« 『SHIROH』を語る。(22) | トップページ | 『SHIROH』を語る。(24) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/74093/2745529

この記事へのトラックバック一覧です: 『SHIROH』を語る。(23):

« 『SHIROH』を語る。(22) | トップページ | 『SHIROH』を語る。(24) »