『SHIROH』を語る。(21)
●リオっていったい。
『SHIROH』って、見れば見るほどそれぞれの役の役どころとかが、ある意味分かってくるのですが(もしくは自分なりにしっくりくるところがあるのですが)、見れば見るほどわからなくなるキャラクターが、自分的にはリオであります。
初日の赤装束&白カツラから、2日目以降の白装束&地毛への変更への思い切り方も凄いものがありましたが、
一応、”聖霊”役ってことで良いんですよね(まだ混乱してる)。
何せびっくりしたのが、リオってキリシタンではないんですね。
根拠は2幕四郎様がシローに苦しみを吐露する場面の、
「キリシタンに間違われて殺された、結局自分が彼女を殺したのだ」
ということから類推してですけど。
「間違われた」と四郎様が断じている以上、「もともとキリシタンではなかった」と言うことなのでしょう。
ただよくよく考えてみると、”聖霊”がキリシタンである必要はなくて、しかも言葉の定義からして”聖霊”って「死者の霊魂」であり
「物質的な身体を持たず人格化された超自然的存在」というのが一応の定義(「大辞林」での定義)なので、その点では全然おかしくないんですね。
むしろ、キリシタンでないが故にはらいそに行けずに、現実世界とはらいその間を浮遊する存在、って方がしっくりきます。こういう言い方がいいかはわかりませんが、いわば「成仏できない霊」のような感じ。四郎の奇跡の力を奪ったことが心残りになって、いつまでも成仏できずにいる。
神様はそんなリオに、
「四郎の心を救うことで、はらいそへの道を与える」
つもりだったんじゃないかなと今は思う。
リオはそれを知ってか知らずか、たまたま神の意志と同じことをしようとしていたのではないかなと。
神が全人的な、全てをコントロールする(できる)などと言う考え方は、おそらく、およそ新感線的ではないし(”人間”とか”生”とかを重視している方向性からして、”神様が全てを決める”って結論は多分、新感線的には採らない考え方だと思う)、それゆえに(特に四郎に)何もできないでいるリオってもしかして「落ちこぼれの天使?」とかって思ってしまう(←書いてることに悪気ないので念のため)。
四郎とつくづく心が通じ合わずにすれ違いつづけ、一方通行であり続けるという点は、リオと寿庵に共通しております。むしろ、最後に気持ちが通じただけ寿庵の方が救われたのかも、と思える点もなきにしもあらず。
そういえば1幕『なぜに奪われし光』で、四郎が語っている部分、
「幼い頃に照らしていた 今はもうやってこない
奇跡が起こる あの微笑み」
何回か見た段階までは、これはリオのことを言ってると思ってたんですが、「今はもうやってこない」のであれば、この時点で四郎に見えている(四郎は見たいと思っているわけではないけれど)リオを指すわけではないのですね。
で、「奇跡が起こる」のであれば、奇跡の力を結果的に奪ったリオを指すわけではないですね。
更に「幼い頃」というところまで噛み合せると、何となくこれって
「幼い頃に長崎で出会った少女(=寿庵)」
を指すように思えてくるのですね。
幼い頃に出会っていた、あの微笑み(=寿庵)で奇跡を起こせていた自分が、その奇跡の力で起こした悲劇によって力を失ってしまう(=リオ)、そして再び奇跡を起こせるようになるのは、さんじゅあんの館で再会し、ひたむきに最後まで支えてくれた女性(=寿庵)を、ただ救おうとしたから、というストーリー。ある時、なぜかそう腑に落ちてしまったのです。
何せ、若かりし頃に会っていたことを今も心にとめていなければ、”さんじゅあんの館”でいきなり、目の前の少女が寿庵であることを見抜くことは無理なわけで、四郎が寿庵を思い続けていたようにしか思えなかったりします。
ちなみにリオの出ている場面で一番好きなのは、以前も書きましたが『まるちり~握った拳に神は宿る~』の場面。とにかく公演後半になるほどシローやキリシタンとの噛み合い方がゾクゾクするぐらい素晴らしかった。
「この人たちのために歌って!」とか「自分の手で殻を破ろう」とか「その胸に神は宿る」とか「その心の中に」とか、回を重ねるごとに良くなってた。
そしてふと振り返ってみると、リオが誰かに受け入れてもらった場面は、もしかするとこの場面だけ。四郎とシローにしか見えない少女、四郎には結果的に避けられ続け(特に2幕なんぞ、リオはシローをかまうのに手いっぱいなのか、それとも四郎に寿庵がいるからチャチャを入れられないのか、全然絡む場面がない ←書いてて思ったんですが、本当に気の毒だ )、シローからも見えなくなり、本当に悲しそうに涙を浮かべる。
最後のシーン。リオの口づけがシローの歌の力を取り戻させ、皆をはらいそに連れて行くシーン。直後に、四郎の口づけが寿庵を生き返らせる”奇跡”と対になっていますが、リオにしてみれば、「四郎を救うために、シローと3万7千人の命を犠牲にしてしまった」リオの償いの気持ちなのかな、と思えてきます。
『SHIROH』の作品がやっぱりいいなぁと思うのは、
皆がまっすぐ思いを貫き通して、最後まで使命に生きたということ。
自分達の思いに正直に、嘘偽りのない生き様を見せてもらったことが、やはり何より素晴らしかったと、改めて思うのです。
●新感線&東宝コラボレーション話。
『SHIROH』は新感線と東宝の共同製作。
新感線作品と東宝作品の大きな違いといえば、
「メッセージ性の違い」ではないかと思います。
いみじくも寿庵役の高橋由美子さんが『月刊ミュージカル』2004年12月号のインタビューで、
「新感線作品は、メッセージ色をあまり出さない」
と語られています。
多分、稽古に入るか入らないかの段階での発言だったのでしょう。
去年一年間、東宝2作品(『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』)、野田秀樹さん1作品(『透明人間の蒸気』)、長塚圭史さん1作品(『真昼のビッチ』)・・・という、”メッセージ性の塊”ともいえる4作品をやってきた彼女にとってみれば、過去の経験(新感線2作品)から類推すれば、そう判断したとしても不思議はないかなと。
つくづく、終わった後に役者さんにその役を語ってもらう機会が欲しい。今ならどう言われるのでしょう・・・。
でご覧のとおり、『SHIROH』は新感線作品には珍しくメッセージ性が強い作品になりました。
何となく「新感線作品として『エネルギーとホンの一貫性』に、東宝的な『メッセージ性』を加味したミュージカル」のように思えてきます。
でそれは共同製作だったからこそ出てきたものではないかと。想像ですが。
新感線作品を見終わったときに感じる、悲劇を語りまくっても最後に筋を通す清々しさは、今回も健在だったし、
東宝作品を見終わったときに感じる、ある意味過剰ともいえる作品テーマの明確さも、確かにありました。
それは、新感線作品にとっても、新たな可能性を投げかけるものであろうかと思います。
新感線作品の良さを生かしながら、一つ上のレベルを目指すために何が必要かということを投げかけられたのではないかと。
片や、海外翻訳物の繰返しが多い東宝作品にとっても、新たな可能性とともに、ある意味では問題提起であったのではないか、そう思えてしまうのです。
海外作品であるが故に制約に縛られ、作品のパワーで突っ走れない部分(どことなくこじんまりまとまってしまう部分)をどう解消していくか。その点を明示できた点において意義深いものだったのではないかと思うのです。
また、複数キャストがある意味当たり前になってしまった東宝作品にとって、
シングルキャストで「物語を深める」ことのメリットを明確に提示できたことも、『SHIROH』の功績ではないかと思ったりもいたします。
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